ハートを揺さぶったお葬式 50人のエピソード

目次

51歳男 焼き場で父の喉仏について話してほしかった

 大人になってから経験した最初の親戚の葬式は、母方の祖父の葬式でした。

もう30年近く前のことです。

おじいちゃん子だったこともあって、とっても悲しかったのを覚えています。

「死んでしまったおじいちゃんは、どうなるのだろう」。

そんなことも考えました。

そういえば、おじさんと一緒に二人で「お骨を守る」というので葬儀場に泊まりました。

東京だとそんなこともしないでしょう。

もっともすごく田舎ではありません。

鎌倉です。

ひょっとしたら、神奈川県のあの地域での昔からの習慣なのかもしれません。

 でも一番驚いたのは焼き場へ行って、祖父のお骨が出てきたときのこと。

焼き場の職員の人が、ピンセットみたいなものでお骨のかけらを持ち上げてみせるのです。

 「ほら、よくご覧ください。

仏様の形をしていますでしょ。

亡くなかった方が成仏された証拠です」
 なんでもその骨は喉仏なのだそうです。

喉仏が座っている仏様のように見えるのです。

 その5年ほど後に、母方の祖母が亡くなりました。

よく覚えてはいないのですが、葬儀場や焼き場は同じだったのではないかと思います。

その証拠にやっぱり焼き場で同じことをいわれました。

 「ほら、よくご覧ください。

仏様の形をしていますでしょ。

亡くなかった方が成仏された証拠です」
 なるほど。

焼き場ではそういうことをいうものなんだな、と思いました。

 昨年、父が亡くなりました。

今回の焼き場は都内の焼き場です。

祖父祖母のときと違って、ごく最近のことなので事細かに覚えています。

一番衝撃的だったのは……。

 喉仏の話が一切なかった。

 私自身もう50を越して、人生もそれなりに生きて来たせいか、「死んですべてが終わりじゃないさ」と思うようになりました。

だから別にいいといえばいいような話です。

時代もあるかもしれないし、東京だからビジネスライクなのかもしれません。

喉仏の話がないから、父だけ成仏できないというわけでもないでしょう。

でも2度も喉仏についての講釈を聞いた身としてはちょっと残念でした。

28歳女 祖父のお葬式で好物を棺に入れる段になって…

おじいちゃん子の女性です。

祖父が亡くなったのはもうずいぶん昔のことですが、多忙な父母に代わって私を育ててくれた恩もあり、亡くなったときは親を亡くしたかのようなショックでした。

葬儀は仏教式。

おごそかにお通夜が祖父宅で営まれました。

たくさんの弔問客。

誰もが心から泣いていて、温かい祖父の人柄がしのばれました。

宗教方式から、家の玄関の入り口に大きな銅鑼が掛けてありました。

これがかなり特大のサイズで、皆これをくぐって家に入るしかなく、頭をぶつける人も続出。

「この銅鑼、こんなに大きい必要ある…?」と皆口々に言っていました。

祖父と対面のとき、祖父の仕事着だった白衣が着せられ、それに合わせてたくさんの真っ白な百合が入れられていました。

さらに百合の花束が回ってきて、祖父の遺体を埋め尽くさんばかりになったとき、嗚咽が漏れ、皆感情をたがぶらせていました。

そのときです。

なぜかここでバナナの房が百合の花束とともに回ってきました。

百合の花に混じって、濃厚な完熟バナナの香り…。

弔問客はザワつきました。

「なぜバナナ…?」と。

すると誰かが「個人の好物を棺にたくさん入れてあげてください」と叫びました。

たしかに祖父の一番好きな果物はバナナでした。

私は隣にいた伯母に、「バナナ…どこに入れるの?」とささやきました。

伯母は「うーん、スペースがないから、百合の上から置こうか…」と戸惑っていました。

体のほうはもう故人のメガネや私物で埋まっていたので、残っているのは顔周辺のみ。

「この演出はどうなの…?」と思い、バナナの房ごと棺に入れようとしましたが入りません。

私と伯母は、バナナをちぎって1本ずつ祖父の顔の横に置きました。

幼い親戚の子供がそれをみて噴き出しました。

バナナに埋もれる祖父の顔…。

しめやかだった空気が、だんだん笑いに変わっていき、私も泣き笑いしながらもなんとなくいたたまれなくなりました。

さらに二房目のバナナが回ってきた頃には、祖父の顔はバナナに埋め尽くされ、忍び笑いがあちこちで起きる始末。

祖父は戦後の厳しい時代、甘味はバナナだけだったとのことで、そんな切ないエピソードがありつつ、この笑撃の状況に若干ショックを受けました。

最後に出棺の銅鑼が激しく鳴ったときも子供たちは爆笑。

ある意味明るいお葬式でしたが、「信心深かった祖父本人はどう思うのだろう」と思うと複雑な気持ちになってしまいました。

これからお葬式をされる予定のある方は、故人の好物を棺に入れる際、しめやかな空気が壊れないかどうかその内容を確認されるのがいいかもしれません。

33歳女性 最後まで温かく故人を送る

30代女性です。

今春に祖母を見送った際に家族葬を利用しました。

祖母は祖父に先立たれてから10年ほど経過していました。

祖母は認知症を患っていたため亡くなる最後の方は近隣家族との付き合いと福祉施設のヘルパーさんとのやりとりだけだったと思います。

認知症になって8年ほど経過していたため友人や近所の人のことはもう見ても思い出せないようでした。

祖母が亡くなった際は親族以外に葬儀に呼ぶ必要はないのではと考えて、小規模の家族葬を選択しました。

葬儀は親族20名ほどで執り行いました。

家族葬は祖父の時と同じ葬儀会社さんにお願いをしました。

お通夜の翌日に告別式を行いました。

お通夜から、翌日の告別式までは親族で同じ宿泊施設に泊まりました。

CMなどで「さようならがあたたかい」など聞いたことがありましたが、まさにそのような印象でした。

棺に入った祖母を20人ほどの親族で囲んで「おばあちゃん綺麗なお顔だね」、「好きだったお花に囲まれてうれしそうだね」と話しながら、みんなでお別れのあいさつをしました。

家族葬のいいところは、喪主となる人が余計な気疲れをしなくて済むという点です。

親戚以外の人を呼んで葬儀になると、正直お顔のわからない方、つながりがわからない方がいらして、対応に追われることがあります。

お香典を受け取ればお返しの準備も必要になります。

食事の準備や会場スタッフの増員などお金の問題もでてきます。

故人を直接知らない人が会場にあふれるよりも、一緒に暮らしたことのある人たちで見送る方がずっと温かいと感じました。

また親族が久しぶりに再会して同じ宿泊施設に泊まったことで、久しぶりに集まることのできた喜びを感じました。

葬儀に参加した小さな子供たちは、みんなで旅行に来たような気分が味わえたようでした。

私の祖母は認知症だったためいつかお迎えが来てしまうことは覚悟していました。

祖母のように、周りの家族が心の準備ができているのであれば家族葬で十分なのではないかと感じました。

家族葬を通じて疎遠だった親族とも再開ができて温かい時間を共有することができました。

25歳 女 はじめての家族葬

25歳女性です。

私が印象に残っているお葬式は母方の祖父のお葬式でした。

母方の祖父は病気のため70歳でなくなりました。

私は地元を離れていたので何度か無くなる前に会いに行ったのですがそのときは元気はなく、そのあと後日息を引き取りました。

母方の祖父は結婚をするとともに地元の新潟県を離れて祖母のいた愛知県へと引っ越してきました。

婿養子というわけではありませんが新潟県より愛知県のほうがお仕事があるという理由で引っ越したそうです。

そのため祖父側の身内はほとんど新潟におり、年配の方が多いためお葬式は愛知で家族葬で行われることになりました。

家族葬を今まで経験したことがなかったので、イメージとしては小さいところで細々とお葬式をするのかな…なんだか寂しいなと思っていましたがお葬式場について驚きました。

非常に綺麗なお葬式場で、家族が最後の時間をゆっくり過ごせるようなつくりになっていました。

スタッフの方も丁寧で、安心して祖父の最後をみることができました。

スペースは他のお葬式場よりもかなり狭く感じるのですが、お葬式にくる人数が20人にも満たないため窮屈な感じはせず、むしろ親戚がみんなそばにいることで変な気も使わずに過ごすことができました。

飲み物もフリードリンクのサーバーが置いてあり助かりました。

また、祖父は宗派が愛知県にはなかなかない宗派だったためお坊さんを探すのに苦労するかなとおもっていたのですが、お葬式場のスタッフが迅速に探して対応してくださいました。

宗派がちがうため葬式中の焼香の仕方等も違うのですがその部分も丁寧に説明してくださったので安心しました。

細々と少人数に見送られるだけのお葬式は寂しいなと以前は思っていたのですがそのイメージは変わり、もし私がなくなった時は家族葬で大好きな人達にそばにいてもらいながら見送られたいなと感じておりますし私の親戚もここでお葬式してね!と言っていました。

大切な人との別れの時間をたくさんかけることのできたお葬式は非常に印象に残っています。

35歳女 粋な副葬品に感銘しました

現在2児の母親をしている専業主婦です。

10年ほど前の話ですが、私の伯父が亡くなり葬儀に参加したことがありました。

私が小さいころは伯父の家族と一緒に果物狩りに連れて行ってくれたり、潮干狩りに連れて行ってくれたり、うちに泊まりに来た時には私の寝かしつけまでしてくれたこともありました。

よく遊んでくれた優しい伯父とのお別れだったので、私はとても悲しかったのですが、感謝の気持ちで一杯でした。

読経や焼香などが終わり、最後のお別れの時。

御棺に副葬品を手向けます。

私たち家族はそれぞれお花を手向けました。

伯父の家族からはいつも身につけていたものなどの他に、趣味でよく使っていたあるものが手向けられました。

それが、釣竿でした。

内陸に住んでいた伯父でしたが、本当に釣りが好きで、シーズンになると休みのたびに沿岸の地域へ遠征し、釣りを楽しんでいました。

その帰りにうちへ寄って、魚をたくさんくれたこともあり親戚や親しい人の間では伯父の釣り好きは有名でした。

そんな伯父の為に家族は釣竿を入れようと考えたのです。

しかし、釣竿は金属や燃えない素材が使われている製品。

通常であれば副葬品としては入れられません。

そこで、伯父の家族は本物の釣竿に模して作った木製の釣竿を副葬品として手向けたのです。

私はこういうものがあることを知らなかったので、これはいいアイディアだなと思い感銘しました。

葬儀についての相談をする際に副葬品の相談もしておけば、釣竿のように入れられないものであっても木製の代替え品を副葬品として用意してくれる場合があるそうです。

他には金属でできたメガネや化粧品、酒類など様々なものを模したものがあり、遺族の気持ちに出来る限り応えてくれるようです。

これには伯父もきっと喜んでくれたのではないかと思います。

天国でも釣りを楽しんでいるのではないでしょうか。

身近にいる大切な人が亡くなってしまった時、それは本当に悲しくて気持ちに余裕はなくなるかもしれませんが、伯父の時のように故人の為に粋な計らいができたらいいなと思いました。

21歳女性 葬式でヤラカス

親戚が多くこれまでにたくさんのお葬式に行かせていただいた、21歳です。

これは私がまだ小学生だった頃の話。

親戚の方がなくなったのですが自宅から300㎞も離れた所が会場だったので子供ながら疲れていました。

いくらお葬式だといっても子供からしたら知らない親戚であるし、なかなか遠出もしないので正直なところワクワクしていました。

日帰りではなく宿泊ありの予定でしたので、すごく嬉しかったんです。

そしてホテルに着くと、子供が好きそうなおもちゃがたくさん並んでいますよね?私が駄々をこねるもんだから、音のなるケータイ電話を買ってもらったんです。

すごく嬉しくって離さず持っていました。

そしてお葬式会場へ。

小学生ながらもきちんと出席しました…がしかし何かの誤作動でポケットにきちんとしまっていたケータイ電話が突然「ピロリーン!電話だよ!」なんてなり始めてしまいました。

親は当然焦りますが、私もパニックになって頭真っ白になりました。

「やってしまった。

もう終わりだ」周りは見て見ぬふりをしてくれましたが、たった一人。

私ととても仲が良い親戚のおばさんが小学生相手に「あぁ、やったね○○ちゃん。

このあとお前さんも怖い怖いに連れていかれるねぇ」と笑いながら脅してきました。

それはもう恐怖でした。

嘘なんて信じないピュアな子でしたから本気で信じてしくしくと泣いた記憶があります。

まあ今思えばおばさんが面白くってからかってきたというのはわかるのですが(笑)
私の親は当然私に対してこっぴどく怒りましたが、おばさんと私のやり取りを見てかそのあとは怒らなくなるばかりか、親戚のおばさんに「お前それ以上よせよ」とあきれた表情で話をしていました。

今思えばおばさんは私に対してそんなに怒られないようにと配慮してくれたのかなぁと思っています。

しかし今でもそれはトラウマで大切なことがあれば何が何でもケータイの電源は切るようにすると決めています(笑)

56歳女皆に慕われて逝った叔母は幸せな人生だったようです

56歳  女   専業主婦です  4人家族、2人の子供がいますが、一人は独立しています。

夫の叔母にあたる方のお葬式に参列しました。

義父の実弟の奥さんになります。

9月のまだ残暑きびしい日に8月から具合が悪く入院していたところ、急逝されたということでした。

お通夜にも訪れ、告別式は夫に仕事があるため私一人で出席しました。

亡くなった叔母はとにかく優しく、気の利くかたで、我が家の義父母が亡くなって私一人で動揺してしまっているときも、励ましてくれながら、一緒に手伝ってくれました。

その叔母さんが、白い棺のなかで、眠っているなんて、現実とは思えません。

叔母さんにぴったりなイメージの淡いピンクや白、ワインレッドのコスモスが一杯に祭壇には飾られています。

その真ん中で、在りし日の叔母さんがにっこりと笑っている遺影が飾られています。

今にも声をかけてくれそうな生き生きとした笑顔です。

いつも、私たちと会うと「きやーたの?ゆっくりしてってー」と柔らかな声をかけてくれたものでした。

告別式が始まり、ひとしきり読経がおこなわれます。

その後、20歳になったお孫さんが、東京の音楽専門学校に行っているということで、自作の曲を電子ギターで披露してくれました。

若い彼ならの見送り方でしょう。

とても心がこもっている歌でした。

みな、しんみりとして聞き入っています。

歌い終わり、一人一人、線香をあげ、おりんを鳴らしおごそかに祈ります。

私も「何も分からない私にいろいろ手伝ってくれて本当にありがとうございました。

」と心のなかで、頭を下げます。

すべての方の最期のお参りが終わると、叔母さんの棺の中にコスモスを参列者みんなで入れてあげました。

色の白い叔母さんとコスモスはとてもよく似合ってきれいです。

少し叔母さんの顔が嬉しそうにもみえます。

そして、いよいよ出棺時刻が迫ってきました。

葬儀スタッフたちが、お棺を運ぼうとしますが、お嫁さんが泣いてお棺にとりすがっているので、なかなか動かせません。

マイクで何度も葬儀社の方々が促していましたが。

その姿は傍らから見ている私たちにも一層悲しさをつのらせます。

本当に皆に慕われていた方でした。

嫁姑のいざこざなど聞いたことがないほど、仲がよかったのです。

最期の時に人はどのような人生を送ってきたのかよくわかるといいますが、真実なのですね。

38歳女、葬式後にインフルエンザにかかりました

38歳の主婦です。

夫の祖母が亡くなった時の事です。

私達夫婦は夫の実家からはかなり離れた場所で暮らしていました。

そのため私は夫の両親とはそれなりに交流があったものの、夫の祖母とはほとんど交流をもったことがありませんでした。

また夫の祖母はここ数年は認知症を患っていたため、会いに行っても夫の事もわからないようでした。

そんな夫の祖母が急な病で亡くなり、私と夫は連絡をもらってすぐに病院に行きましたが、祖母は既に亡くなっていました。

夫の両親が手配をしてくれて、病院からすぐに葬儀場へ向かう事になり、私達夫婦もその葬儀場に向かいました。

本当はとても悲しくて、テキパキと色々な事ができる状態ではなかったと思いますが、家族みんなが悲しみを押し殺して作業をしているのがわかりました。

葬儀場に行ってから色々と式の段取りやこれからの事を話し合って、その日は夫の実家に泊まりました。

そして次の日また葬儀場へ向かいました。

そこで初めての体験をしました。

葬儀場の人達が夫の祖母の体を拭いて着替えさせていたのですが、その行為を少し手伝わせてもらいました。

今まで自分の祖父の葬式には出た事があったのですが、その時はそんな事はやりませんでした。

なので最初は体を拭いたりする事に緊張感がありましたが、やっているうちに祖母ときちんとお別れができているような気持ちになりました。

あまり夫の祖母とはきちんとお話をした事もなく疎遠になっていて、もっとちょくちょく会いに行けばよかったなと後悔の気持ちが溢れてきて、綺麗に眠っているようなお顔を見るとますます悲しくなりました。

緊張しましたがとても貴重な体験をさせてもらえてよかったです。

こじんまりとしたお通夜が行われて、夫の親戚の方たちとたくさん会う事ができました。

私たちの結婚式の時でさへ会う事がなかった夫の親戚の方たちもいて、挨拶をするのが大変でした。

翌日お葬式も行われて、またたくさんの親戚の方たちと挨拶をしました。

お葬式の数日後、私はインフルエンザにかかりました。

緊張と疲れでかかったのだと思いますが、葬儀場の人の中にすごく激しく咳をしている人がいたのを思い出して、せめてマスクしてほしかったなと思いました。

50歳男性 家族の手作りお葬式で、新しい発見がある事を学びました

私は50歳、男性で広告デザインを生業としています。

家族は妻と娘がいます。

冠婚葬祭の中でも、結婚式ですと、幸せの空間なので、印象に残った結婚式は多いものですが、葬儀となると厳粛であったり、しめやかな空間でもあるので、印象に残る葬儀は、家族や親族以外では意外と少ないものですが、丁度、3年前の知人のお母様が亡くなられた葬儀は、今だに印象に残っています。

その葬儀は、家族葬でした。

家族葬と言っても、家族プラス私だったり、深いお付き合いの方も参加しての家族葬でした。

その葬儀は、司会こそ、葬儀社の方が行っていたのですが、読経をする方は、ご親族の方でした。

勿論、受付も誘導もご親族で行っていました。

参加者は20名もいなかったのですが、本当に手作りの葬儀で、葬儀後のお食事も全て手作りでした。

予算がないと言う事ではなくて、故人の意向だったと言う事でした。

私は親族でもないのですが、何か親族の一員の様な空気感に包まれた不思議な感じでした。

それほどの暖かい距離感の中で、葬儀は進んで行きました。

そして、私が一番、印象に残った事は、メモリアルスライドショーでした。

今や当たり前の物かも知れませんが、この葬儀のスライドショーはちょっと違ったのです。

まずは家族での手作りです。

そして、故人が大好きだった曲をBGMにその場で、お孫さん達が、スライドショーに合わせて、交代でナレーションをし始めたのです。

生まれから、亡くなるまでの10分程の内容でした。

そのお孫さんのお母さんが、少女時代の頃のセリフを故人に話す場面は、もうみんな大号泣でした。

何かそのスライドショーを見ていて、故人は次の人生をスタートを切ったんだなと素直に思っている自分がいました。

そう思うと、葬儀全体が、悲しみを越え、暖かい空気感に変わっていました。

私は家族と故人の距離感を感じて、羨ましくなりました。

葬儀と言うのは、当事者は何か人が多く、気を遣いバタバタの中で終わってしまうイメージがあったのですが、そうではなくて、誰にも気を遣わず、手作りで、悲しみから暖かさに変わり、最後は来て良かったと思える葬儀。

この葬儀が本来の形なのではないかと深く感じて帰って来ました。

手作りをする事で、故人の新たな発見をする事が出来たと、ご家族はおっしゃっていました。

実は相当な苦労人だった事。

実はこんな趣味があった事。

普段は寡黙でも、実はこんな性格だった事。

そんな発見が出来る手作り葬儀は、私は参考にしたいなと思いました。

50歳女 お葬式での不思議な体験をしたこと

自営業をしています。

お葬式でのエピソードは、今年亡くなった父についてお話をしたいと思います。

父が亡くなる寸前に、不思議な体験をたくさん経験したのを今でも覚えています。

例えば、なくなる2週間前に動かなくなった腕時計のことをしきりに言葉に出すのです。

『あの時計、動かなくなって半年たつんだよ。

電池を交換してきて欲しいんだ』と、父は母に懇願をしてその日のうちに母は時計屋さんで電池を交換してきました。

父は安心していました。

その後父は安心したのか、息を引き取りました。

そしてお葬式、いつもはなかなか全員が集まることのない親戚中が集まりました。

実家では多くの人を呼ぶことができなかった
ので、斉場で親戚一同が集まりました。

何十年ぶりにあった親戚の叔父や叔母、いとこや兄弟姉妹の親戚たちが集まりましたが、ここ何年か膝の調子が悪く自宅のベッドで一日寝たきりとなっていた父に対しては、皆もいつかはこうなることがわかっていた様子でした。

前の日にお通夜があり、翌日がお葬式だったのですが、いざ骨だけになってしまった父の姿を見て、皆が一斉に涙を流し始めたのが印象に残りました。

家族全員も皆わかってはいたことなのですが、こうして骨だけの姿になった父を見て涙を流さなかった人はいませんでした。

私も父をみながら「無事に天国へ行ってね」と心の中で伝えたとたん、うわーっと感情があふれてきたんです。

哀しいという気持ちは当のとっくになくなっていたかと思ったのですが、父の頭蓋骨をしみじみと見たときに涙があふれて止まらなくなりました。

骨だけになってしまった姿に。

『うわー、私どうしたんだろう」ととっさに私は思いました。

何だか、父がここにいるみたい。

父が自分の姿を見て泣いているみたいでした。

無意識にうわーっと涙が流れてきた瞬間、私は「私もこんなに悲しかったんだな」と改めて父が大好きだったことを感じました。

ただ、後悔していることはありました。

父の言葉をもう少し理解してあげたらよかったのになと思います。

小さいころはよく父と私はケンカばかりしていたので、父が亡くなった後に後悔しました。

今なら父の頑固で、口下手だったから怒ってばかりだったんだなということがわかります。

皆さんももしご両親に伝えられないことがあるなということがあったら、きちんと話をしておいた方がいいですよ。

いろいろな想いはあるかと思いますが、私のように後悔しないでほしいです。

42歳 女性 最低限の形式知らず

自分が高校卒業したぐらいにおばあちゃんが亡くなりました。

生前親が離婚し父親が子供達を引き取ることになったので、急に家事を自分たちでやらなくてはならなくなりました。

そんな子供達を心配してよくご飯など作ってくれました。

身内のお葬式に大きくなってからは初めてのことでしたので、私もとりあえず黒い服を着ていけば良いと思っていました。

なのでストッキングは肌色、バックも黒だったら良いと思いうちにあるエナメル質のピカピカ系のバックを持っていきました。

お父さんもそんな感じで黒い服は良かったものの靴下は適当でした。

お葬式に行くと女性は薄黒いストッキングに黒い日からないバックで慌てました。

ですが、身内はうちの事情が分かっていたので丁寧に注意をいただきました。

そういう最低限のことは今やネットでなにかしら調べられますが当時はまだなかったので親から子へと風習などは子供が恥ぬよう教えていくべきだなっと痛感しました。

まだ身内なのでよかったものの、これが近所などだったら話題になりかねません。

また最近は正座して座る機会が大変少なくなりました。

お寺でお経をあげていただいたのですが、それが長くうとうとしてしまった挙句、お線香をあげるときに足がしびれてしまってとても立てる状態ではありませんでした。

ですが順番なので立ち上がろうとしたときに見事に足の踏ん張りがきかず倒れてしまいました。

身内なのでも前のほうに座ってますし目立ちます。

大好きだったおばあちゃんなのでしっかりと見送りたかったのですが色々反省点のあるお葬式でした。

なので、まずお葬式に出られる前どんな服装がよいか調べる事がよいと思います。

またお経をあげていただいてる間の正座対策など調べていくことが良いと思います。

またお香殿の書き方もやはり結婚式とは違います。

各地方によって形式も違うかもしれません。

ですが大筋は昔から変わらない顔思います。

恥じぬよう、まず下調べされていくほうがよいと思います。

30歳女 おばさんの話が止まらない

30歳女、結婚し数年になります。

去年のことですが、夫の仕事関係で懇意にしていただいていた方(以下Aさん)が急逝されました。

前からご病気を患っておられたそうですが、懸命に働いていらっしゃった最中のことで夫ともども私もショックを受けました。

私はそこまで深いプライベートなお付き合いはなかったものの、数回お食事をご一緒させていただいたこともありお葬式には夫と参列することになりました。

身内の小さいお葬式しか経験がなかったので、仕事先の方も大勢いらっしゃると考え、失礼のないよう注意して向かいました。

まだお若い方でご病気で亡くなられたので、参列者の方も沈痛の表情をされていました。

ですがただ1人、せかせかと動き回ってスタッフの方にあれこれ聞いたり指示している年配の女性がおられました。

状況を見るに、どうやら亡くなられたAさんの奥様のお母様、要するに義母に当たる方でした。

笑顔こそありませんでしたが、みなさんが俯いているなか、どこかハツラツとしている雰囲気さえ感じました。

お葬式も終わり、夫とお暇させていただこうかと話し、改めてご家族にお悔やみとご挨拶をすると、たくさん用意しているから是非残ってくださいと昼食をご一緒させていただけることになりました。

恐縮しながらも会場に入ると、皆さんまだ悲しい表情をされていました。

Aさんのお父様が気丈に、しかし涙をこらえながらご挨拶をされ、会食が始まりました。

家族の方からだんだんと昔話が広がって、一緒に働いていた方達やご友人などがAさんの思い出話をしながら、ときおり微笑みも見えながらお料理をいただきました。

その時、あの義母さんが大きな声で「Aくんは次男だったけれど、そういえばうちの次男もね~」とまるで道端でご近所同士の会話のように話し始めたのです。

そしてそこから次男の自慢話を延々と。

挙げ句の果てにはAさんの会社の上司の方に「長男をなんとか雇ってくれないかしら!?急に言っても無理よねえ!」と楽しげに言い放ったのです。

周りはドン引き、上司の方のお顔も引きつっていました。

娘さんであるAさんの奥様は泣きながら退席、それにも気付かず話し続けるお義母さん。

なかなかショッキングな出来事でした。

70歳のおばあちゃん お葬式で激怒!

お葬式と聞いて私がまず思い出すのは、自身の母方の父、おじいちゃんの結婚式です。

この日は未だに忘れられないほどショッキングな一日として脳裏に焼き付いています。

私のおじいちゃんは長崎出身。

若い頃の写真をみても、いつもカラフルなワイシャツにビシッとセンターラインの入ったチノパン。

髪も死ぬ間際までふさふさでしたし、顔立ちもいわゆるイケメンだったと思います。

カラオケが大好きで笑い声が大きく、コミュニケーション上手。

いわゆるハイカラなおじいちゃんでした。

私たちにとっては、気前がよく優しい、本当の良いおじいちゃんでしたが、問題が発覚したのはまさにお葬式の日でした。

それまで、おばあちゃんも私の母も、私に隠していたことがありました。

それは、おじいちゃんにとっておばあちゃんは3人目の奥さんであるということ。

そして、前妻との間に計8人もの子供がいること。

その8人にも平等に資産を分けるとした書を残して死んでいったこと。

つまり、後半は病床に伏していたおじいちゃんを懸命に看護したおばあちゃんの知らないところで、おじいちゃんは前妻との子供にもお金を分けあたえようとしていました。

それに黙っていなかったのが、おばあちゃん。

もともと前妻との間にも確執があったようで、「あんな女の子供に1円もあげる気持ちにはなれない」とかなりのご立腹。

おばあちゃんが怒っている姿を見るのもはじめてだった私は、いたたまれない雰囲気に胸が苦しかったことを覚えています。

結局、お葬式の日には、どこから噂を嗅ぎつけたのかはるばる長崎から(おじいちゃんの最後の地は岡山でした)8人の男女がやってきて、しかも中にはお葬式だというのにも関わらずヒョウ柄のコートで来る女性なんかも居て、おばあちゃんが怒る理由もちょっとばかり分かるような気にもなりました。

「あんたにやるお金はない!私ばかりが面倒みて、あんたらは見舞いの一つもこなかったくせに!」などと親戚の前で叫んでいるおばあちゃん。

周りもおばあちゃんの気持ちが分かるからこそ止めるに止められず、物々しい雰囲気でお葬式は幕を閉じました。

残された者のためにする式だとはよく言いますが、あのケースに至っては、お葬式をしたことがあだとなって悲しい記憶が残っています。

56歳女性 実母が他界した56歳になり、実母の葬式を思い出す

28年ほど前の実母のお葬式のことです。

我が家は高台にあり、その頃の暖房といえば、小さな灯油ストーブのみでした。

お通夜に県外の親せきが小さな自宅に集まり、久しぶりの集まりでまた地元の人も多く来てくださり、ちょっとした飲み会がどこそこで始まっています。

伯母や叔父もまだその頃は、50代だったと思います。

明治生まれの祖母も嫁が先に逝き、私の友人にも「これからもよろしくお願いします」と言ってくれました。

私のお腹には、長男が五か月でした。

切迫早産気味で、周りの叔母たちから「元気な子供を産むことだけ考えて」と言われました。

妹は高3でした。

だから、母の葬式の時、ほとんど私は、何もできなくて、おなかの子供にまで気持ちが向かう余裕もないくらいに高3の妹のことも近所の昔から知っているお隣のおばちゃんから「近所でお母さんが亡くなって、そこの子供は行方不明になったから、気を付けなさい」と言われました。

本当に手作りのお葬式に近かったと思います。

近所の方が本当にお通夜は夜遅くまでだれかれ問わず来てくださり、お葬式も自宅でして、お坊さんも祖母が毎月行って婦人会の活動をしているお寺さんで、その和尚様がとてもお酒好きな方で、飲んで帰られるような今では考えられない時代でした。

11月なのにもう冬という感じで寒くて寒くて、ゆっくり寝ることもできなくて、久しぶりに会った一歳年下のいとこやその叔母たちや私の実弟が取り仕切ってくれて、父も好きなお酒を飲んでいました。

空き家になった実家には、もう誰も住んでいません。

祖母が毎日知らない間に草むしりをしてきれいに整えた庭と父が自分の趣味のために作った車庫の隣の部屋は、今も夫が草刈り機で草を刈り、車庫には夫のバイクが止まっています。

父が最後一人になり、自由気ままに遊んだ私物が散乱し、知らない間に裏に小さい頃近所にいた女性が結婚して住んでいました。

父が一人暮らしする頃からもう住んでいたそうです。

今もその女性が車庫の外の県道沿いの木が伸びると女性のご主人が切ってくださいます。

そんな風にいまだに私が知っている人が暮らしている田舎にはまだ母の葬式に来て下さった方々も高齢になっても暮らしています。

私たち夫婦は母の葬式の頃のような近所付き合いはありません。

どういう葬式になるのか考えてみる時、母の葬式を少しだけ思い出してみました。

68歳男性 母の葬儀で心に残ったお寺さんの手配について

70歳を前にした年金生活者です。

2年前に母が94歳で他界しました。

父が亡くなり、10年ほど実家で一人暮らしをしていましたが、軽い脳梗塞で歩行が困難となり、最後の2年余りは特別養護老人ホームのお世話になっていました。

父が亡くなった時に、どこの葬儀会館で葬儀を営むのか悩んだ経験があったので、数年前に実家の近くに新しくできた全国展開の葬儀社の積み立て会員に私の名前で加入していたので、悩む事無くその葬儀会館で通夜・葬儀を営む事にしました。

葬儀会館に母の遺体を搬送してもらい、安置所に安置してもらった後で、葬儀社と通夜・葬儀の日程をまず決める事になりました。

葬儀会館に遺体を搬送されたのが午後の3時頃で、できれば翌日に通夜を行い、その次の日に葬儀を営めればと考えました。

葬儀社はすぐに凌焼場に空を確認してくれ、何とか翌々日にスケジュールを確保してもらえました。

私の方は、実家に父の月命日に毎月お参りして下っていた実家近くの寺院に導師のお願いをしました。

しかし、お寺さんはすでに法事の予定が入っており、その日程は難しいとの返答でした。

そんな時にも、少しでも無理を聞いてもらえるように、母が施設に入居している間も、私がお寺さんに月命日にはお寺でお参りをお願いしますと、1年分のお布施をまとめてお渡ししていました。

しかし、そんな効果もなく、お寺さんの都合に合わせて通夜・葬儀は営むべきものだといさめられてしまいました。

その事は十分理解していたのですが、翌日が土曜で、翌々日が日曜日で、母から見た働き盛りの孫達の事を考えると、都合が良いと考えて何とかその日程にしたかったのです。

そのお寺さんに墓地がある訳でなく、実家を処分すると仏壇も私が引き取る事になり、そのお寺さんと付き合う事もなくなります。

そこで葬儀社に同じ宗派のお寺さんを紹介してもらい、導師を務めてもらう事にしました。

葬儀社との間で、お布施の取り決めをされている様で、葬儀社から標準額を参考提示してもらえました。

そのお寺さんを導師として通夜・葬儀・初七日・四十九日法要を営み、その後に性根を抜いてもらい、仏壇を私の家に運び、そこで地元のお寺さんに性根を入れ直してもらいました。

葬儀の場所でバタバタしない様に、事前に積み立て会員として心構えしていましたが、まさかお寺さんの事で、バタバタするとは思いもよりませんでした。

母の葬儀の出来事としては、このお寺さんの件が、今も忘れられない事となっています。

44歳女性 お葬式に金髪とカラコンで参列したワタシ

15年前の祖母のお葬式に参列したときの出来事です。

お葬式は、結婚式のように予定が決まっているわけではありません。

突然やってきます。

そんな突然やってきた出来事ですが、日頃から心がけておくべきこともあるものだ・・・と実感した祖母のお葬式でした。

当時、20代後半で無職中の私は、毎日が休暇で楽しく過ごしていました。

働いていたときは、朝早くから夜遅くまで仕事ばかりの毎日だったため、仕事を辞めた途端にネジがひとつ外れたようです。

生活習慣も自由気ままなら、身なりも自由気ままです。

髪は金色、目はカラコン。

化粧もフルメイクです。

金髪にカラコンなんて珍しくないと思うかもしれませんが、住んでいる地域が田舎なだけに目立つのです。

けれど、そんなことはお構いなしで、気にもとめず、自由気ままな毎日でした。

しかし、突然その時はやってきたのです。

祖母のお葬式です。

自由気ままに毎日過ごしていると、自分に対しても周囲に対するマナーや作法も自由になってしまうのでしょうか。

何も気に留めることもなく、家族と祖母のお葬式に参列しました。

もちろん、礼服をきて参列はしました。

そこでようやく気がついたのです。

お葬式とは、黒い集団だ!ということを・・・。

もちろん私も、その黒い集団の一員です。

金髪とカラコンが、黒い集団のなかでは、かなり目立つのです。

しかも、祖母が住んでいた地域はかなりのド田舎です。

周囲を見渡しても、髪の色は黒か白髪しか見当たりません。

10年ぶりぐらいに訪れたド田舎では、「あの子誰?」「どこの子?」と、近所の人たちのヒソヒソ声が私の背中をチクチクと差してきます。

唯一の救いは、親戚一同が私の礼服に金髪とカラコンを合わせた姿に大爆笑してくれたことでした。

「さすがだな、その格好」と大笑いです。

お葬式とは、突然やってくるものです。

もちろん、お葬式に金髪とカラコンで参列してはいけませんという決まりはありません。

しかし、お葬式は黒い集団、黒に金髪とカラコンはとても目立ちます。

そして田舎だと、より一層目立ちます。

それを、お忘れなく・・・。

50歳男性、祖父のお葬式で体験した嫌な思い出のこと

50歳会社員男性です。

お葬式で印象に残り忘れなれないエピソードがあり投稿します。

経験したのは、私がまだ幼稚園に通っていた頃の話しです。

当時、母方のお父さんが亡くなり、孫としてお葬式に出席したした。

その時に経験したことが忘れられません。

幼稚園児だった私から見た母方のお父さん、つまり祖父は、無口で気難しい昔ながらの古い戦前の日本人と言った感じであまり良い印象はありませんでした。

でも、普段は一緒に暮らしていなかったので、たまに会いに行くと、笑顔で迎えてくれて、その時の祖父は好きでした。

そんな祖父が亡くなり、お葬式で、葬儀屋の方がマイクで話し始めた時、うちのお父さんや大人達が変なことを言ったのです。

祖父はアイバンクに入っていたようで、亡くなった祖父の目はアイバンクに寄付されたのとことでした。

そんな説明の最中に、うちのお父さんや親戚の男性連中は、アイバンクのことを、愛人バンクとか言い始めて、ちゃかし始めたのでした。

愛人バンクに俺も入りたいとか、愛人バンクで愛人が何人いたのかとか、ニヤニヤ笑いながら不謹慎きわまりなく、幼稚園児の私でも嫌な思いでした。

そんな大人の男性達も、今では殆どの方が亡くなって、この世にいません。

あの世で反省していて欲しいです。

その時は、あまりにも気分が悪かったので、お母さんに話したら、静かにしていなさい、貴方はあんな馬鹿な大人になっちゃダメだよと諭されました。

その時の心情は、正直、泣いて怒りたかったです。

でも、我慢しました。

自分は絶対にあんなふざけた大人にはならないと決意しました。

後悔していることは、やはり、自分の父親には、お葬式で祖父の悪口やふざける仲間に入って欲しくなく、あの場で、やめて欲しいと言うべきだったと後悔しています。

しかし、まだ幼稚園児だったから、そんな勇気はなかったのかもしれません。

いずれにせよ、即座にやめさせたかったのに出来ず、後悔してます。

お爺ちゃん、ごめんね。

もしも、お葬式に場にそぐわない不謹慎な行動をする方がいたら、即座に係の方々に伝えて、改善させる術を取るべきだと思った幼児期の忘れられない出来事でした。

34歳女 初めてのお葬式、もう会えないことを知った

30代主婦です。

ずいぶん昔のことになってしまいますが、曽祖父のお葬式がとても印象的で、忘れられません。

曽祖父は、戦後病気を繰り返しつつも90代まで健在だった人で、大人になってから聞く彼のエピソードは「とても気難しく厳格な人だった」という内容がほとんどですが、当時私や兄弟たち曽孫に対してはとても優しく、いつも目尻を下げて優しく話してくれていた記憶があります。

そんな曽祖父は最期には肺炎で亡くなりました。

当時小学校中学年だった私は、亡くなる2日前、曽祖父の入院していた病室にお見舞いに行き、声をかけたのが最後です。

曽祖父はすでに意識がなく、子供心に「もう会えなくなるのかもしれない」と思いました。

けれど病室に集まる親戚たちの重い表情に、それを言葉に出すことはできませんでした。

曽祖父のお葬式は、私が生まれて初めて参列したお葬式となりました。

皆が黒い服を着て集まり、粛々と進むその儀式は日常とは遠く、なんだか異様な雰囲気だなと感じたことを覚えています。

お坊さんのお経を聞くのも初めてで、眠いなあと思ったり、独特の抑揚が面白く思えてしまい、従兄弟たちと笑いそうになるのを必死にこらえました。

曽祖父が亡くなったという現実味はなく、ただ退屈な時間でした。

ですが、棺桶にお花を供える時になって、母に「ほら、お花入れて、ひいおじいちゃんにお別れして」と言われた時、急に悲しさが押し寄せてきました。

ひいおじいちゃん、目を瞑って寝てる。

起きないの?もう話せないの?燃やされちゃうの?どうして?どうして?
曽祖父の顔を見たことでそんな気持ちがいっぺんに溢れてきて、涙がこぼれました。

生意気盛りの年頃だった私は両親や親戚の前で泣くことが恥ずかしく、声を押し殺してなんとかこらえようとしましたが、とても涙を止めることはできませんでした。

この先大人になったら、ひいおじいちゃん以外ともこんな風に悲しいお別れをしなくてはいけないの?と、人の死、家族を見送ることについて初めて考えました。

眩しいくらいに晴れた、真夏の日でした。

40歳専業主婦葬儀で雨降って地固まる

私は、二人の子供を育てている、40代の専業主婦です。

私の義理の祖母が亡くなったのは、おととしのことでした。

結婚した当時は健在だったのですが、震災の歳に倒れて寝たきりになってしまいました。

その後は病院のベッドの上で徐々に自我をなくしていき、おととしについに大往生されたのでした。

義母は私の結婚当時から親戚の悪口をよく言っていました。

どうも、遺産相続を契機に、義母の兄弟は仲たがいをしてしまったようでした。

私が嫁に来てから、義理の祖母は足が悪く、よく入退院も繰り返して、健在とは言いつつも、自分の死期がそう遠くはないと思っていたようでした。

自分の頭がしっかりしているうちに、自分の子供たちの仲たがいを治め、子も孫も仲良く顔合わせしたいと、時々親戚に声をかけてはいたようです。

しかし親戚たちは、義母と会うのを嫌がり、ついにそれは叶わないままとなりました。

義理の祖母が倒れてからは、さすがに義母から親戚に見舞いに来るようにと連絡を入れてはいたようですが、それも断られたと、義母はひどく怒っていました。

ただ、後で分かったことなのですが、義母がいない時を見計らって、こっそり義理の祖母の見舞いには来ていたようです。

ただ、義理の祖母が望んだような、一堂に会して仲良く、という日はついに実現しないまま、義理の祖母は亡くなりました。

いざ、葬儀の時。

一体どれほど険悪な空気が流れるのだろうと、部外者の自分はハラハラしながら葬儀にのぞみました。

しかし、いざ親族一同集まってみると、さすがに葬儀の場で喧嘩をするわけにもいかず、誰も彼もみんな穏やかに世間話をしていました。

義理の祖母の望んだ光景は、図らずもその葬儀でようやく実現したのです。

喪主である義母は泣きながら、「母がこのような場を設けてくれたと思います」と挨拶していました。

しかし私は、やはりみんなが少しずつ我慢して、義理の祖母の生前にこの状況を実現してやるべきだったと思いました。

だって、「葬儀で喧嘩するわけにもいかないから」と自分を押し殺して談笑できるということは、その気になればいくらでも我慢して人と付き合えるということなのだから。

30歳女 姑から母子共に虐められ、祖父の葬儀では他人として扱われる

30歳女性独身です。

私が中学2年生の時、父方の祖父が亡くなったのでお葬式を行ないました。

ただ、当時から私達家族と父方の親族は拗れた間柄でした。

と言うのも祖母が母を極端に拒絶しては忌み嫌い、姑として嫁をいじめていたのです。

そして孫である私と姉のことも嫌っていました。

両親は、父が大学生の時に母と出会い交際を始めたのですが、父が大学を中退してしまった過去が起因していたそうです。

祖母曰く父が中退したのは全て母の責任だ、男を誑かした惨めな女と決めつけては母に直接文句ばかり言っていたのです。

また母が子供の頃に片親となった事も気に入らなかったようで「貧乏な家の惨めな奴」と悪口を言っては様々な嫌がらせをしていました。

そしてその母の血を引く孫の立場の私と姉すら忌み嫌い、子供の頃から一度も正月にお年玉を頂いた事がありませんでした。

お年玉は貰えませんが電話で小一時間程祖母と話して正月初めから悪口を言われ続ける、という慣習が我が家には幼少期から定着していたほどです。

勿論祖母と祖父の家に帰省すると家の中で居場所がありません。

ダイニングテーブルには母と子供達は座ることを許されず、夕食は別々に取っていました。

帰省した際に私が転んで怪我をした際もバンドエイドを貰えず、「お前たちの金で買って来い」と祖母に言われコンビニへ買いに向かったことも苦い思い出です。

それ程までに祖母は母を極端に嫌っていたのです。

そんな中祖父が他界し、お葬式を行なうにあたって案内状を作る事になりました。

父は長男なので案内状作りを率先して行ない、祖母と叔母と相談しながら作成していました。

勿論母も葬儀の準備に奔走していました。

ただ母は案内状の作成に参加することを許されていませんでした。

その間は私と姉で祖母の家事を全て担い、率先して手伝いをしました。

祖父の死が両家の歪みをより深くしていると空気で察したので、子供ながらに手伝えることは自分からやろうと思ったのです。

勿論祖母に少しでも自分達に良い印象を持って貰えるように奉仕しようという気持ちもありました。

そして案内状が完成し、私達家族の家にも案内状が届いた時の事です。

案内状を開いた母が絶句していました。

私がどうしたの、と聞くと母から「親族欄に私の名前が無い」と言われたのです。

案内状を実際に見てみると喪主である祖母の名前を筆頭に親族の名前が続くのですが、叔母は旦那さんの名前とお孫さんの名前まできちんと明記されているのですが長男である父だけは父の名前で終わっていました。

つまり長男は「独身」であるかのように書かれ、妻と孫の名前が削除されて排除されていたのです。

明らかに父は単身者で家族を持っていないという書き方で、母子共々祖母から存在すら認めて貰えていないと痛烈に実感しました。

それだけでなくお葬式でもなんと母と私達子供は親族の座る場所に座らせて貰えなかったのです。

葬儀は家族葬で行ないましたが、それでも家族の輪から排除された形でお葬式に参加することを余儀なくされたのです。

当時中学生だった私も流石に違和感と怒りを感じ、そこまで母を憎む祖母の気持ちを理解することが出来ませんでした。

ただ祖父が亡くなって急いで帰省した際も祖母が「到着が遅すぎる!」と私達家族に怒鳴って我々に土下座を要求していました。

勿論孫の立場である中学生の私も祖母に向かって頭を付けて土下座しました。

そのまま申し訳ございませんでしたと何回も謝罪したものです。

そしてその夜は父のご遺体が納められた棺を安置した葬儀屋の一室で過ごすよう祖母に言われ、祖母の家に泊めて貰えませんでした。

無論食事も自分達で用意しましたが、そもそも帰省の便も仕事を止めて急遽帰ってきた父と飛び乗った夜の便でしたので、到着時間は深夜であり特に遅くなった理由もありませんでした。

それでも祖母が帰って来るべきと勝手に定めた時間を過ぎた事で土下座を求められ、家に上がることも許されなかったので本当に悔しく理不尽な気持ちになりました。

このような出来事が起きた上に案内状から母と私達の名前が排除されたとなると母も堪忍袋の緒が切れて、お葬式を終えて都内の家に帰ってからは一度も祖母と連絡を取らなくなりました。

私はその後高校3年生になるまで正月の電話を続けましたが以降は自分から電話に出たくないと父に申し出ました。

あれだけ子供の頃から祖母の悪口に耐えて、子供なら当然貰えると思っていたお年玉を貰えない事に違和感を感じて成長し、かつ母が祖母から罵倒される様を度々見せられてきたのでお葬式の案内状から名前が排除されていた事実は屈辱的でした。

勿論もっと小さい年齢の頃からどんな扱いを受けても祖母に気に入られるよう振る舞っていれば、母もここまで虐められることはなかったのではと後悔もしています。

また母が罵倒されているのを静観していた父に対し、祖母に注意してくれともっとおお願いしていればと後悔しています。

お年玉について私から父に何か言う事はなく、むしろ母が「孫にお年玉をあげるのは通例なのだから貴方からお母様にお願いして欲しい」と代弁してくれました。

なので母への悪口については私が父に注意を促すよう何度も頼み込んでいました。

ただそれも十分ではなかったのかもしれません。

思い返せばもっと祖母に奉仕すれば良かったという事に尽きます。

しかしその反面でそれではまるで奴隷じゃないか、と人格否定を真に受ける事に抵抗も感じていました。

姑が嫁を虐めるというのは世間では当たり前と言っても過言ではないでしょう。

今嫁の立場にいる方や交際中の彼氏のお母さんに良く思われていない方が居ましたら、早期に関係性の円滑化を行なうべきだとお伝えしたいです。

一方的な虐めを一人で解決することは出来ませんし、かと言って虐めてくる姑と面と向かって話し合うことは相当難しい事です。

今後の関係性を左右することにも成りかねません。

しかし私の母のように一度忌み嫌われると姑はとことん家族の輪から排除して来るでしょう。

絶対にとは言いませんが両家の関係が異常な程悪化する恐れも十分にある事、これを解決するためには悔しいですが嫁の方から歩み寄って姑と話し合う事が重要になる事をお伝えしたいです。

祖父のお葬式のように最悪の場合葬儀で親族席に座る事すら許されないケースもあると悪い事例としてお伝えします。

36歳女 祖母を亡くして気づいた事

祖母が四年前に亡くなりました。

私はおばぁちゃん子だったので
出来る限りの事はしたと思っています。

ですが母は祖母との関係が悪く優しくできなかった事を亡くして初めて後悔していました。

母はお通夜、お葬式中
「優しくできんでごめんね」
「辛い思いばかりさせてごめんね」
とずっと泣きながら祖母に向かい謝っていました。

祖母は体調を悪くして入院した頃から
葬式はしなくていい。

骨も拾わなくていい。

と言っていました。

なので母以外の親族は派手な葬式はやめて質素な物にしようと。

お金の問題もあったのですが削れる物は削ろうと。

お花から棺、霊柩車等も一番安い物でと。

ですが母の後悔している姿を見ていると
せめてお見送りだけは後悔しないようにさせてあげた方がいいのではと思いました。

最後のお別れと言う意味で…
私が全て仕切り祖母の気持ちとは反するのですが一般的なお葬式の準備をしてもらう事にしました。

お仏壇もいらないと言っていた祖母でしたが残された側の気持ちで言うと
やはり毎日思い出すし手を合わせて話しかけたいと言う気持ちがあったので小さいサイズですが用意しました。

今日はこんな事があったよ。

とか
今日はお誕生日だね。

とか
通じているかどうかはわからないですがそうしていると気持ちが落ち着きます。

祖父を亡くした時は私自身が子供だったのでそんな事は考えた事もなかったし
大人が泣いている姿に不安を感じたりお葬式会場の雰囲気等が凄く怖く感じていました。

今思えば祖父のお葬式は言い方は悪いですが華やかだったと思います。

それはやはり祖母のお見送りする側の気持ちでそうなったんだと思います。

お葬式と言うのは亡くなった人の意思も大事だけどお見送りする側の気持ちが凄く大事なんだと思います。

お金をかけた方がいいとかではなく
気持ちに一段落つける為のお見送りする側の為の儀式なんだと思います。

ですがやはり普段から後悔しないように人には優しく接する事が一番大事なんだと思うお葬式でした。

38歳女、葬儀で歌われた賛美歌に感動しました

30代後半の女性会社員ですが、10年以上前に祖母のお葬式に参列をしました。

祖母とは離れてくらしていたので、会うのは年末やお盆など1年のうち数回ほどでした。

祖母は助産師の資格を取得していたので、高齢になってからもボランティア活動をするなど、地元では大活躍をしていたようです。

確かにいつ会っても年齢を感じさせないほど明るくて行動派だったので、そんな祖母の葬式に参列することになるとは想像もしていませんでした。

祖母が住んでいた家の近くにある斎場で葬儀が行われるので、自分も親と一緒に参列をしましたが、その時印象に残ったことがありました。

祖母は仏教の東本願寺派を信仰していて、普段からお付き合いのあるお寺さんがお経をあげにきていました。

お経が読み終えられた後に、参列者がそれぞれ焼香をした後、故人に贈る言葉という時間がもうけられました。

遺族などが代表をして喪主が挨拶をしますが、その前に他の参列者も自由に言葉などを贈ることができます。

その時に、祖母が生前、ボランティアなどで仲良くしていた同年代の女性が数人、前に出てきました。

そしてその女性たちが賛美歌を一緒に声を合わせて歌い始めたので、最初は驚きました。

プロの声楽家のような声ではありませんが、祖母のことを見送るための、優しく澄み切った歌声で、思わず聞き入ってしまいました。

時間にすると2~3分ほどだったと思いますが、祖母の死を悲しんでいて、さらに安らかに眠ってほしいという気持ちが伝わってきました。

後から聞いたところ、祖母もボランティアなどで知り合った友達と一緒にコーラスに参加をして楽しんでいたようです。

離れて暮らしていたこともあり、生前の祖母のさいきんの生活などは全く知らなかったので、心がじんとくるものがありました。

友達に囲まれて、老後は楽しく過ごしていたのだとわかったら、とても嬉しくなりました。

そして賛美歌がとても心に響いたので、自分も歌ってみたくなりました。

28歳女 お葬式で遺産横取りがばれて大揉め

はじめまして。

28歳の主婦です。

先日、葬儀に参加した際に起こった事件についてご紹介しますね。

これは、私の中で衝撃的で忘れられません。

今年の春、桜が咲き始めたころに夫の祖母が他界し、葬儀に参加してきました。

夫の祖母は、優しくしっかりとした女性でとても大好きでした。

家族中もよく、幸せそうだと感じていました。

祖母は、息子を若いうちに亡くしており、その息子さんのお嫁さんと二人暮らしをしていました。

血のつながらない関係でも、こうして一緒に住み、お世話をしていることにその関係性を尊敬していたんです。

しかし、葬儀が終盤に差し掛かり、その関係性がものの見事に崩れ去った事件が起きたんです。

食事会の最中でした。

お金にがめつい祖母の妹が遺産について聞いたんです。

すると、そのお嫁さんは
・貯金
・土地
・その他の権利
すべてを、祖母に内緒で名義を自分に変えた、と問い詰められ話してしまいました。

祖母の生前から、少しづつ名義を変えて自分のものにしていたようです。

運悪く、祖母も遺言を口頭のみで伝え、文章には残していませんでした。

当然、もらえると思っていた親族は憤慨、和気あいあいとしていた葬儀も一瞬にして殺伐とした雰囲気になってしまったんです。

祖母の孫たちも加担していることがわかり、「質の悪い家族!」「恥知らず」などの言葉も飛び交うお葬式となってしまいました。

祖母が大好きだった私としては、こんな葬儀は悲しく、これじゃあ祖母が浮かばれないと感じました。

私一人ではその場を収めることもできず、とても後悔が残ってしまう出来事でした。

このもめ事が起きたことで、お墓詣りやお盆に線香をあげに行くこともできなくなってしまい、今でも「天国で祖母はどう思っているのかな」と悲しくなります。

そんなことにならないように、自分の家族にはしっかりと遺言書を残すようお願いをしました。

お葬式の場面で、遺影や遺骨を前にしてもめ事を起こすなんて恥ずかしいと感じたからです。

皆さんも、お葬式でのトラブルが起こらないように、家族で前もって話し合っておくことをおすすめします。

52歳 男 葬儀スタッフの顔

こんにちは、シモヤンです。

 自分はバイク中心とした旅好きなおじさんです。

バイクを通して知り合い、師匠とお呼びしていた方の娘さんが亡くなり、その告別式のお話です。

 この年齢になると結構な数の葬儀に出るようになりました。

しかしながら心から涙して、自分の言葉足らずというか、何も言葉として声をかけられない無知を悔やみました。

 心からお悔やみを申し上げました。

 いつも明るく、初対面にやさしく手を差し伸べ、あるバイクツーリングチームのリーダー的存在の方。

40歳過ぎてからバイクの免許を取り、おどおどしながら、参加したツーリングで色んな事を教わり、人柄も尊敬に値する素晴らしい師匠。

 ラインのバイクグループで知った、師匠の高校生の娘さんが病気のため亡くなったらしい。

各自でお通夜、告別式に参加するという。

 自分は告別式に参加。

会場に行くと、娘さんの同級生、師匠の仕事関係と続々と集まり、会場いっぱいになってしまいました。

私が会場に入る否や、師匠が駆け寄ってきました、痩せて、小さくなった師匠が私の手を掴み、「急に亡くなって、忙しいのにスミマセン」と、言われた。

自分は我慢できなくて涙が出てしまう、でも言葉が出ない。

なんていえばいいのか?ただ、師匠の腕をつかみ返し、頭を下げるだけで精一杯でした。

遅くにできた娘さんで、自慢の子だったらしく、演劇部で活発な娘さんだったらしい。

 式は式場のアナウンス役のおばさんが淡々とこなします。

この式場の方たちは仕事ですので、表情も変えづちゃんと仕事をこなします。

自分は娘さんの同級生が棺の中にお花を入れ沢山集まっているので一番後ろで立ってその様子を見ていました。

 式も終わりに差し掛かり、師匠の挨拶が始まりました。

自分の横に立っていてクールに仕事をこなす葬儀場のスタッフ。

なんとなく気になりリーダー格のおばさんを見ていた。

 挨拶の途中、感極まった師匠が、「親より先に行きやがって、買って来いよ!」と大声で悲痛の叫び声をあげました、私は我慢できなく涙とすすり泣きをしてしまう、周りの人たちもほぼ号泣に近い状態でした。

 その中で淡々とお返しの用意をする式場のスタッフ。

リーダー格ののおばさんを見ると、泣きながら仕事をしていました。

自分もその姿を見て、また涙してしまった。

同じ人間だから、当たり前だよな、と思いつつ、我慢しなけりゃいけないと、我慢しきれない崩れた顔の式場スタッフの方に、なんか、嬉しくて、ありがとうと言いたくなりました。

 感情移入してくれてありがとうm(__)m あんたい奴だよきっと。

28歳男 葬式と悲しみ

現在28歳のサラリーマンです。

ここ最近親戚が亡くなることが増えてきて、良いのか悪いのか葬式に参加するのにもだいぶ慣れてきたように思います。

自分の中で一番記憶に残っているのは小学二年生の頃に親しかった叔父が亡くなった時のことです。

小学校の授業中に突然、別のクラスの先生が教室に入ってきて「○○さん(私の苗字)の叔父さんが亡くなったそうよ!」と叫び、すぐに帰るように促してきました。

その時の私は、他のクラスメイトから注目を浴びているように感じて、少し高揚感を抱いていました。

その高揚感は叔父が住む地域に飛行機で移動した後もずっと続いており、兄弟と一緒に平日なのに、学校に行かないで済んでいる状況を楽しいとさえ感じていました。

しかし、それは葬式が始まったことで一変します。

周りの空気は感じたこともないような重いもので、普段は明るい父の顔が固くなっていたのは今でもよく覚えています。

そして、叔父の棺が運ばれる際、母が声をあげながら泣き出しました。

それを見て私だけでなく、他の兄弟も声をあげて泣きました。

それ以降は不思議と涙が出ることはなく、火葬も粛々と行われ、葬式で出た料理がおいしいと思う余裕さえありました。

今振り返って思えば、あの時私が泣いた理由は「親しい叔父さんが亡くなって悲しくなったから」ではなく「母が兄弟の死を嘆く姿が痛々しかったから」が大きいと思います。

他人の死よりも自分の母の悲しみの方が辛いものだと実感した今だからこそ、なるべく親を悲しませるようなことをしないようにと今日まで生きてきました。

もちろん叔父との別れは悲しかったですし、今でも叔父と過ごした日々のこと思い出すことができます。

ただ、私に与えた影響として大きいものは母が悲しんだということであり、恐らくそちらの方が強く心に残っています。

そう思うからこそ、自分は両親に先立って死ぬことはないようにしなければと考えます。

親に対して何をするわけでもありませんが、一つの恩返しとして私は長生きをしたいと思っています。

31歳女 葬儀でのクレーム

私は、現在介護士として働いています。

母と妹家族と2,5世帯の、6人と一匹で生活中です。

2016年夏、私の誕生日の前日でした。

「今日は研修だから少し早く帰るよ」と休憩の時にLINEを送ってきていた父が、帰宅直前に搬送されました。

心筋梗塞との事でした。

以前、母が冠婚葬祭の仕事をしていたときに互助会に入っていたので、葬儀場へはすぐに移動できました。

私は、ロウ人形のような大好きな父を目の前にして、受け入れたくない気持ちと、理解した上で、家族を落ち込ませないようになるべくしっかり明るく振る舞おうとしました。

葬儀にしても父がお世話になった人が来てくれる、家族を大事に本当に優しかった父自身を、こういう人だったんだよと他の人にも理解してもらえるような「パパの為の最善」だけを考えていました。

思い出の品や好きだった物を置けるスペースに、亡くなる3ヶ月前に作った家族のアルバムを置いてもらいました。

事前に渡してあった写真と音楽で、フォトムービーを作成して頂き、葬儀の最後に流して頂きました。

「いい加減にして!パパの葬儀を失敗させたいの!?」と子供の様に母は地団駄を踏んで泣きじゃくりました。

葬儀前、キャンペーン中入会特典として出来るはずの生花葬の契約内容が変更になったと言われ、母は泣く泣く諦めようとしていましたが納得がいかなかった私と妹は葬儀業者の本社に確認の電話を入れました。

対応してくれていたスタッフの方は、母と一緒に働くこともあったらしく常に上からものを言う様子で、私たちの質問は完全スルーで話を聞いて貰うこともできませんでした。

別の若い男性スタッフは、式の合間や火葬中に喫煙所におり挨拶をするでもなく笑いながら立ち去って行きました。

3人いるはずのスタッフは知らない間にいなくなっており、100人以上の方が来てくれたのにも関わらず、母は挨拶に周り、私と妹は場所を案内し、というバタバタに見回れてしまいました。

父の為の葬儀なのに、クレームを3回も出してしまいました。

自分に余裕がないからこそ、前もって家族と話合っておく事が必要かもしれないと思いました。

最後に、棺桶の蓋を閉じる直前に入れようと思っていたバナナを入れ損なった事が心残りです。

25 女 葬式で複雑な思いをした

初めまして、りんごと申します。

自分の父を亡くし、お葬式をしたときのお話をさせて頂きたいと思います。

私が高校一年の、クリスマスの日に父が心筋梗塞で倒れ 次の日の昼ごろに息を引き取りました。

まだ高校生の私にはショックのデカすぎる出来事で、その後はなにもやる気もせず、食べる事も忘れ 抜け殻の様でした。

この時期のお葬式は年末年始もあるからか、お正月があけてからではないとお葬式があげられませんでした。

それまでは遺品整理や棺桶にいれるものを選別したりと大忙しでしたが
お葬式が何日も先、というのは心の整理的にも複雑でした。

そして、年が明けてお葬式の準備が着々と進んでいきました。

参列してくださる方々に連絡をしたり 色々な手配もしたり。

母はもう、心ここにあらずな感じでそれを支えるように私と私の姉で動きました。

2人姉妹で、普段は仲は良くなかったですが こういう時の絆は凄いものです。

そして、お葬式の時になりました。

生前、父と関わった方々
母方の兄弟(母方の祖父母は他界してるため)
父方の弟さん、そのお嫁さんなどが参列しました。

母方の兄弟のほうは、実家も近く良く遊びにいったので顔はもちろん覚えていましたが

父方のほうは、小さい頃に一度きりしか会った事がなかったので
顔も覚えてはいませんでした。

お葬式がはじまり、
参列者の方々に挨拶をしていると

!!!!!

あれ、父親がいる。

いや、よく見ると父親の顔のそっくりな弟さんがいる。

生き写しを見ている様でちょっと怖かったですが
会話をしてみると、父とはちがいおっとりしている弟さん。

ああ、やっぱり父は死んだのだ。

と改めて思いましたが
お葬式の後のご飯の場で
隣の席に座らせて頂きましたが、似てる似てる。

顔はまずそっくり。

年もそんなに離れてはおらず、体型も似ている。

話すと別人だと思えるけど 見た目だけはそっくりで、なんとも複雑でした。

これがすごく印象的でした。

双子の方が亡くなられた時とかは、そのご家族の方は
複雑な気持ちになったりするのかなぁと、高校生ながらに考えていました

49歳女 許せなかった父とのお別れで涙が出た

父のお葬式は身内と数えるほどの友人だけで静かに執り行いました。

家族葬と呼ばれているここ数年人気のお葬式でした。

こぢんまりとしたお葬式だったけどみんな父に会いに来たくて集まった人ばかりで余計な気を遣う必要がない良いお葬式でした。

父が亡くなるとき母の元にはいませんでした。

はっきり言うと愛人宅に父は長年住んでいてガンになってからの通院治療も家で最後の時を過ごすのも全て愛人宅でした。

母のところに最後くらいは帰ってくると思って待っていましたが、一人で歩ける状態の時何度か母のところにいた父ですが、泊まることはせず必ずその日のうちに愛人宅へと帰っていたのです。

ガンになってやせ衰えていく父を見ていて心配でした。

父は若い頃から内蔵系の病気にかかりやすく何度かガンを患い手術しています。

その後回復すると仕事を再開していた父ですが亡くなる3年くらい前からは仕事を辞めて療養していました。

その療養生活が愛人宅だったことから私たち家族は心にしこりを持っていたのです。

お葬式は母は父と離婚していなかったため私たち家族で執り行いましたが、母はなかなか涙を見せませんでした。

平気な顔をした家族を見て私も平気な顔をしていました。

しかし葬儀が進み父が寝ている棺桶に花を置いていると母が大きな声を上げて泣き出して・・・。

父は頑固一徹のような本当に怖い人で、子供時代はびくびくしながら暮らしていました。

母も父からの暴力を受け心にも体にも傷を負いました。

だから許せない気持ちがあったのに母が泣き崩れるのを見て私も涙をこらえることが出来ませんでした。

どんな人でも母にとっては夫だったのですね・・・。

そして私たち子供にとってまぎれもなく父親だった。

最後のお別れ・・・火葬場に向かう前、父との本当のお別れは悔しくて悲しくて情けなくて心がぐしゃぐしゃ。

こんなに泣けるはずがないと思ったけど、あのときあの場所で泣いておいて本当に良かったと今は思っています。

20歳女お葬式のお坊さんがとてもロックだった

私がお葬式で見たエピソードについてご紹介していきたいと思います。

私が初めてお葬式に出席したのは、高校生の時でした。

その時亡くなったのは私の祖父で、とてもしんみりとした気持ちに包まれていました。

お葬式に来たのは親戚だけの、こじんまりとしたものでした。

そこにお坊さんが来たのですが、このお坊さんがかなりの曲者だったのです。

まずお焼香から初めてで、どうすれば良いのか分からずに緊張していたのですが、お坊さんがお経を読み始めてから驚きました。

なんと、指をパチパチと鳴らし始めたのです。

まるでバンドマンがカウントを取るときのように、パチパチと急に鳴らすので、とても驚いてしまいました。

思わず隣に座っていた兄を見たほどです。

どうしてそんな事をするのか、それともこれが普通なのか。

その時の私には分かりませんでした。

それが気になって気になってお経の声など入ってきません。

お焼香の番が来ても、ぽかんとしたままでした。

また、お坊さんに関係する話としましては、お経を読み終わった後に、私たちにお話をしてくださるのですが、その内容が一風変わったものでした。

それは、そのお坊さんが事故にあった時の話をしたのです。

どうやら、自転車に乗ってる時に、急ブレーキをかけたのは良いのですが、そのまま体ごと前に投げ出され、顔に大きな傷を負ったというのです。

その跡も見せてもらったのですが、その時漠然と疑問が浮かんできました。

普通、自転車でそれほど大怪我をするものなのだろうかと。

接触事故を起こしたのならまだしも、普段の道路を走っていてそうなるのでしょうか。

お坊さんの話を聞いていると、なんだか親近感が湧いてくるようでした。

お葬式と聞くと堅苦しくて悲しみに満ちた場だと思っていました。

ですが私にはその時のお坊さんのインパクトが強すぎて、今でも忘れられません。

お経を読む側、どこかロックで破天荒なお坊さんの一面を見た瞬間だったなと思いました。

36歳女 沢山の警察官の方が敬礼をしていた

私には大学生時代、親友と呼べる男友達がいました。

彼は大変努力家で、社交的で優しくて、女友達のようでした。

知り合った場所はバイト先でしたが、家が近かったこともあり、一緒に帰ったりしているうちに仲良くなりました。

その彼が、交通事故で亡くなりました。

友達になって8年後の6月の夜です。

彼が亡くなったことを、私はニュースで知りました。

何故なら、彼は警察官だったのです。

努力家の彼は、元々心臓が弱く、いつも試験の最後の身体検査で落とされていました。

身体を動かす仕事に就きたいと、消防士を受けたこともあり、頭がよく勤勉な彼は簡単に試験を突破し、消防士にもなりましたが、警察官への憧れは捨てきれず、消防士を辞めて警察事務と警察官の両方の試験を受けたりしていました。

大学を卒業してから、バイトをしながら独学で試験勉強をし、警察官も消防士も警察事務も、ほぼ100点に近い点数で試験をクリアしてきた彼が、3度目の挑戦で夢であった警察官になった時のことは忘れられません。

身体検査にどうしても引っかかってしまうけれど、体力もずば抜けて成績の良かった彼はこれまでの努力と経験を評価され、無事警察官になったのです。

6ヶ月の研修を終え、配属先の交番に勤めはじめて2ヶ月。

よくバイクに乗っていた彼は非番の日に対向車と接触しトンネルの壁にぶつかって亡くなりました。

心臓が弱かったことが彼の死を早めたのではないかと思いました。

彼のお葬式では、御焼香の時に、200人程の警察官の方が来られ、一糸乱れぬ列を組み、順番に敬礼をされていました。

彼がどれほど期待されていたのか、それだけで十分伝わってくるものがありました。

そして、警察官という職業の方が交通事故で亡くなるということをしてはならないと胸に刻んでいるようにも見えました。

人間なので、どうしてもミスはするし、警察官も時に弱くもなります。

でも、全てを受け入れて彼の死に想いを込め伝えてくれた警察官の方々の姿と、これまでの彼の努力を近くで見させてもらった私にとって、彼のお葬式は忘れられないものになりました。

43歳男性 手順が分からず‥最後はもくぎょを叩いてしまった‥

初めまして都内に住む男性です、私のお葬式で印象に残ったエピソードをお話しさせて頂きたいと思います、宜しければ最後まで聞いて頂ければ嬉しく思います、では。

この話は2019現在から十数年も前の事です当時私は小学生3年生でした、私は幼少期の頃は凄く手のかかる子供で学校が嫌いで行きたくなくて逃げ回っていました、しかしこれには訳がありました‥私は幼稚園児の頃に一人の子からイジメにあっていてそんな体験が小学生になってもトラウマ的に残っていて、またいつイジメに遭うか分からないという恐怖感があったのです。

私は毎朝自宅から小学校に向かう時、学校に行くのが嫌でしたから決まって向かう場所がありました、そこは近所のおばさんが働いている小さな会社でした、何故私がこのおばさんの所に行くのかというと、おばさんは私が赤ちゃんの時から私を可愛がってくれ、幼稚園でイジメに遭って泣いて帰ってきた時もお菓子やジュースをくれて大丈夫だよ!負けるな!と言って励ましてくれたりしたからです。

おばさんは小学生になった私にも以前と同じように可愛がってくれ、私は学校に行くよりおばさんと会って話をしているほうが楽しくて安心も出来ました、しかし‥私が小学生3年生の時におばさんは急に亡くなりました‥原因は脳溢血だったそうです、私はショックで大泣きした事を今でも鮮明に覚えています。

そして、数日後私は親に連れられておばさんのお葬式に出席しました、おばさんは棺桶の中に入っており覗くとおばさんは生きていた頃と同じように優しい顔で眠りについていました、私は自然と流れてくる涙を拭いながらお線香の順番を待っていました、しかしこの時です‥私はお線香をあげた後に何やら動作をしてチ~ンと鳴らしている大人達の姿を後ろから拝見していましたが、どういう手順でやれば良いのか全く分からない事に気がついたのです‥。

しかしそんな事を考えているうちに私の順番が来てしまいました‥私はまずお線香をあげる事だけは分かっていましたから、お線香をあげました‥しかしその後が全く分からないので‥とにかくチ~ンと鳴らして手を合わそうと思い、私は鳴らす為の棒を手に取り、右側にあった何やら音が鳴りそうな物体を叩きました‥しかし次の瞬間会場内にコンッ!という音が響き渡りました‥、そして次の瞬間会場内が笑いに包まれました‥。

何故笑いに包まれたのかというと、私が叩いてしまったのはお坊さんが叩くもくぎょ?だったのです‥、私は子供ながらに恥ずかしくなりましたが最後に棺桶の中にいるおばさんにありがとうを伝える為にもう一度覗きました、すると‥先ほど見たおばさんの顔が変わっていました‥ナンと笑顔になっていたのです‥私は周囲の大人達におばさんが笑ってる!と伝えると、大人達はお前が面白い事したから笑ってるんだよ!と言ってきました。

私はこの時おばさんにありがとう、頑張るからね!と伝えてお別れしました、この先もおばさんの事は忘れる事はありませんし、これからも自分なりに頑張って生きていこうと思います、以上で私の印象に残ったお葬式のエピソードをお話しさせて頂きました、最後までお付き合い下さりありがとうございました、それでは。

40代 女性 初めての家族葬でお葬式のイメージが変わった

私はアラフィフの女です。

家族も親族も高齢化していますが孫のいる世帯は少ない家系です。

私自身も独身で、子供もいません。

数年前、お葬式ラッシュの時期があって(不謹慎ですかね?)ブラックフォーマルをクリーニングに出す暇がないどころかクローゼットにしまう暇もないくらいでした。

お葬式は親族が集まるだけでも気疲れするのに
集まった方々へのお茶出しやら配膳やらで毎日がヘトヘトでした。

時期が冬だった事もあって、車の運転が怖い時期なのにセレモニーホールに行くには急な坂道で凍っていたり、雪がたくさん積もったりと行き帰りも疲れました。

あの頃は故人を悼むとかいうよりは、とにかく疲れたーという感想しかありません。

その後も、何人か亡くなりましたが私の体調が優れないこともあって
お葬式への参列を辞退させてもらっていました。

まだ若い従兄弟が亡くなった時はショックでしたが、そのショックがまた体にさわってしまい
参列できなかった事が悔やまれます。

叔父の一人が、老人介護施設に入所していました。

叔父には娘が一人だけいますが障害があります。

なので、叔父の認知症も気づかずにどうしようもない状態になってからの入所でした。

寝たきりになってしまった叔父はほとんどの人を忘れてしまっていて
母親と娘、兄弟以外の名前は出て来ませんでした。

深夜に親族から電話があって「叔父が死んだようだ」と。

「夕ご飯を食べた後で、巡回したら息をしていなかった」と。

慌てて近くに住んでいる親族が駆け付けると
もう死亡診断が終わっていて
葬儀までの手順を考える必要がありました。

障害のある娘が喪主。

他の親族は小さい子供がいたり、介護中や入院中の家族がいました。

そこで「家族葬」にしないか?という話になって私も賛成しました。

田舎だと、自宅で盛大なお葬式をするのが当たり前で
香典の数やどのくらい親しまれていたかを競うようなイベント化していました。

はじめて経験した家族葬は、みんな気心知れた親族が集まって
子供がいる人は連れてきて、来れない人には無理しなくていいと言い
お茶出しや配膳の準備もいらず、和気あいあいとしてアットホームな葬儀会場だったんです。

気疲れする事もなく、笑いに包まれたお葬式。

あの空間が印象深いお葬式でした。

40歳 女性 家族の想いがギュッと詰まった温かいお葬式

私の母親は4人兄弟で、とても仲が良く、母親の弟であるおじさんは、ムード-メーカー的存在で、毎年兄弟家族が集まる正月では、そのおじさんが会を盛り上げてくれました。

面白くて、やさしくて、私もおじさんが大好きでした。

そのおじさんが悪性リンパ腫になり、2か月ほどで帰らぬ人となってしまいました。

おじさん家族は仲良しで、いつも笑いの絶えない家でした。

葬式の時は、私より年下の長男が喪主を務めましたが、ありきたりなあいさつではなく、父親の闘病の様子や、家族と最後どのようにお別れしたのかなど、父親への想いがいっぱい詰まった素敵なあいさつでした。

久しぶりに会って、ああ立派になったなと胸に来るものがありました。

よく、結婚式などで新郎新婦のいろいろな写真をボードに貼って、飾るなんてことがあるかと思いますが、
おじさん家族は、このお葬式で写真を飾りました。

あまりこのようなことはないと思いますが、
おじさんが結婚した時の兄弟たちも一緒に写った写真、子供たち3人がおじさんに絡みついて笑っている写真、奥さんと旅行に行った時の写真、子供たちが大きくなって、娘が結婚した時の家族写真など、おじさんの今までの様子がわかる素敵な写真でした。

この写真を見たとき、おじさんへの家族の気持ちがすごく伝わってきて、亡くなって悲しいんだけれど、温かい気持ちになれる、家族の想いがギュッとつまったお葬式になりました。

入院して状態が悪くなるにつれ、おじさんは、「兄弟たちに自分が苦しんでいる様子を見せたくない。

自分が笑っているときの顔を覚えていてほしい。

」と言っていたそうです。

家族が作った写真立てには、おじさんの笑った顔がいっぱいありました。

家族は、おじさんの想いを受けとって、このようなことをしたのだと思いました。

けして不謹慎ではなく、こうゆうのっていいなと思いました。

家族の仲の良さや、おじさんの人柄の良さがすごく伝わって、誰にでもできることではないと思います。

私もいつか亡くなった時、こんな風に家族に見送ってもらえたり、見送る立場になった時、こんな風に見送れるような家族を作っていきたいと思いました。

46歳女 会社の先輩の早すぎるお葬式

私が、初めて会社に勤めだした時の先輩のお葬式の話ですが、その連絡は、年が明けて突然連絡をもらいました。

私よりも2つ年上の男性で、穏やかですが、病気とは無縁のような細すぎず、太ってもおらず、むしろ鍛えているかのような体格のいい優しい先輩でした。

私は、その会社を辞めて、転職をしていましたが、転職の理由がスキルアップの為だけだったので、その会社の人たちが好きで、ちょこちょこ会社にお邪魔したり、飲みにも行っていました。

ですが、結婚してからは、子どもを連れてお邪魔するのもと思い、控えておりました。

そうすると、子育てに追われ、ケータイだけのやり取りになってしまって、10年ほどが経ちました。

突然の連絡に、震えが止まりませんでした。

行くかとても悩みましたが、仕事のできなかった私に、直接の先輩でもないのに、よくパソコンの使い勝手のいい方法などを教えてくれたりしたので、お焼香だけでもと思い、参列させていただく事にしました。

会社の方々や、他の人に迷惑をかけないようにと、こそっとお焼香に行かせてもらったのですが、そんな悲しい場所でもあるのに関わらず、知り合いの人に会うと、お互い老けたね、という会話が飛び交いました。

20代前での会社勤めから、40歳を超えているのですから、当然なのですが。

そんな中、亡くなられた先輩のお顔を見ると、あまりの変わらなさに驚きました。

先輩、見た目全然変わってないのに、と言った瞬間に涙が溢れました。

彼は、ご結婚もされ、ちょうど私の子どもたちと同じ歳で、気丈に振る舞う息子さん達を見て、胸が締め付けられました。

お母様をしっかりと支えていかないといけないと思っていたのか、お兄さんの方は、泣かないように口を固く閉じて、きちんと挨拶をしておられたのがとても印象的で、逆に、まだまだ若いこれから働き盛りの先輩が亡くなるというのは、こんなにも受け止め難い事だと思いました。

彼も無念でいっぱいだと思いましたが、突然の予想もしていないお葬式は、こんなにも沈痛なものだと思い知ったお葬式でした。

49歳 女性 母の葬式で…笑ってよいのかいけないのか

私は49歳の主婦です。

10年ほど前に母を脳梗塞で亡くしました。

当時の私はまだ結婚をしておらず、自由気ままな生活をしておりました。

結婚しなくても、お母さんがいればいいや、掃除も洗濯もしてくれるし、食事も作ってくれる…そんなことを平気で言っておりました。

脳梗塞で倒れた母は、意識不明のまま、2日後に、天国へ旅立ちました。

最後のお別れのことばももらえませんでした。

早く結婚をして孫を抱かせてあげればよかったと、今でも後悔しております。

と、ここまでは普通の話しです。

お葬式の日は、2月の寒い日でした。

兄夫婦は、5歳と2歳の娘を抱いて参列していました。

私と父、兄、妹は、最前列に座りました。

その後ろで、兄嫁が2歳の姪を抱いて座っていました。

長い長い読経で、さすがの姪っ子たちも飽きている様子でした。

2歳の姪が徐々にぐずり出しました。

兄嫁が、小声であやしながら、飴玉を舐めさせていました。

その飴玉には、バーバパパの絵が描いてありました。

それを見るなり、姪は歌い出したのです。

「バーバパパのおっぱい、好かん! ばあばのおっぱいも、好かん!」
静寂の中で、姪の歌声が響き渡りました。

私は思わず吹き出しそうになりましたが、ぐっとこらえました。

すると、姪は、しつこいくらい繰り返し、「バーバパパのおっぱい、好かん! ばあばのおっぱいも、好かん!」と歌い続けました。

横を見ると、妹も笑いを必死でこらえているのが分かりました。

それを見ると、私はますます可笑しくなって、肩を震わせて笑いをこらえました。

後ろから見ていた人は、「肩を震わせて泣いている」と思ったようですが?
この話しには伏線があります。

以前、兄嫁から姪を預かったことがありました。

姪は夜になると、兄嫁のおっぱいを吸って眠る習慣があり、この日はなかなか寝付けませんでした。

そこで、母が、試しに、自分のおっぱいを姪に吸わせたところ、「好かん!」と言って、寝てしまったというエピソードです。

このエピソードなしには、母の葬式は語れません。

今でもあのときのことを思い出します。

私たちは必死に笑いをこらえたけれど、笑った方がよかったのではないか、と思うことがあります。

それがお母さんらしいというような気もします。

後になれば、そんなこともあったねって、言えるような日が来るのですから。

むしろ、その方が良い想い出になったかも知れません。

お葬式は、体裁を気にせず、泣いたり笑ったりして、ありのままで送り出してあげた方がいいと思う今日このごろです。

40代女性 叔母の葬儀は家族葬、心がこもっておりました

私は現在40代後半の既婚者女性です。

家族は3人家族ですが、近くには両親や親族などが住んでいるので、身内の交流などは割りと盛んにある方だと思います。

今回の葬儀の事は、私の実の母親の実の姉の葬儀の話しです。

母の姉は私の事を実の娘同様に可愛がってくれました。

私の子供が生まれた時にお世話をしてくれたのは母親ではなくて、母の姉だった事もあり、私の子供の幼少期から母の姉を祖母のように慕っていました。

そんな母の姉が病に倒れて、他界をした時は本当に悲しかったです。

私の夫や子供も同じ様に悲しんでくれて、夫は仕事が多忙でしたが、葬儀にも参加してくれました。

母の姉は生前より、自分が他界したら、家族葬でそっと送ってほしいと言う事を伝えていたそうなのです。

母の姉は2人の息子がいたので、長男が喪主となり、私や母も同席して葬儀社の方と葬儀について話し合いをしました。

その時に生前の叔母の意志を私も伝えて、結果的に親族の中でもごく近しい人間だけを呼んで、家族葬にしました。

家族葬でも1日に短縮して通夜葬儀、そして出棺納骨、初七日までをまとめてできると言う仕組みの家族葬でした。

最初は詰め込み過ぎなのかな?と思いましたが、結果的にはとても充実した濃い1日で家族葬が取り行われました。

一番心に残ったのは、本当に叔母の事を惜しみ悲しみ、おくりだしてくれようと葬儀にきてくれた方ばかりでしたので、心が熱くなる場面が何度かありました。

一番心に来たのは、叔母が生前好きだった曲を流して、流して最後を送り出せたことや、葬儀の後の会食も叔母が生前に好きだったものを並べて、好きな音楽を流して、まるでそこに叔母がいたかのような雰囲気でいられたことでした。

とても来い葬儀の時間は生涯心に残るものだと思いますし、あのような形で理想的な家族葬ではないかと葬儀に関わってみて感じました。

葬儀に来てくれる人の人数ではなく、どのように故人を送り出すかだと学びました。

30歳女 酔っ払い爺さんの遺影事件

私は現在30歳です。

今年二月に離婚しシングルマザーになりました。

今回は私の母方の祖父の葬式をした時のことを書きたいと思います。

祖父が亡くなったのは私が二十歳の時でした。

以前から体調が悪かったわけでは無く、
自宅で心臓発作のようなものを起こし、突然息を引き取りました。

祖父はとてもユニークで少年のような人でした。

度々、私に冗談を言い、からかったりしすぎて、祖母に怒られていました。

そんな姿も全部含め、私は祖父が大好きでした。

亡くなったことを知っても、なかなか実感が沸かず、
それすらも祖父の冗談なのではないかと思ってしまうほどでした。

祖父の葬儀のため、神戸から東京に移動しました。

葬儀場に着き、眠るように横たわる祖父の姿を見ると、
本当に亡くなってしまったんだ、という現実が押し寄せて、涙が止まりませんでした。

冗談もお酒も大好きで、祖父の周りはいつも笑顔で溢れていました。

祖父とのお別れの時に集ったメンバーも、それはそれは個性溢れる人達でした。

式は滞りなく進み、集った人達との会食の時間・・・。

祖父のおもしろエピソードが次々に飛び出し、お葬式とは思えない、とても和やかな一時でした。

大人達はお酒も入り、ますます思い出話に花が咲きます。

その中の一人、70代を過ぎた祖父の昔の職場仲間のお爺さんが、酔っ払い、周りに絡み始めました。

祖父の息子二人が賢明になだめようとしますが、どんどんヒートアップ。

今度はその酔ったお爺さんが泣きじゃくりはじめました。

そして、「何で逝ってしまったんだよ、爺さん!!!」と叫ぶと、
祖父の遺影に日本酒を思いっ切りばしゃり・・・。

楽しい時間が凍り付きました。

これには「もう、いい加減にしてくれよ!!」と祖父の息子達も怒り出し、
そのお爺さんの両腕を抱えて、外へ連れ出しました。

それでも全く懲りない酔っ払ったお爺さんは、タクシーで自宅に強制送還・・・。

十年近く経った今でも、祖父の話が出ると、
必ずその酔っ払いお爺さんの話題もセットで出てくるくらい、インパクトのある出来事でした。

「葬儀・葬式には通夜の他に仮通夜も有った、」 23歳 男性

先般、初めて葬式というものに遭遇しました。

 其れは同居していた祖母がな亡くなって無事に葬式を執り行いましたが、初めての身としては色々と知ることができました。

 先ず、其の時に葬式の他にも通夜や仮通夜というものが有ることに気がついたのです。

一般には人が亡くなられた場合は、自分の家庭内かあるいは病気で病んでいて結果として亡くなるいうことになるでしょう。

 此処で、まず一番の儀式として通夜が行われますが、此の際には更に仮通夜と本通夜というのが行われる場合もあるとされているようです。

 

仮通夜は何れも主に自宅で行われますが、自宅で亡くなった間合いはそのままですが病院で亡くなった場合は遺族たちが一旦、自宅へ搬入しなければなりません。

 かといって亡くなられた遺骸、つまり遺体というのは個人がかってに而も、マイカーなどでは運んではならないという法的な規制(・・?)もありますし、普通車で遺体を運ぶというのは余り気持ちのいいものではありません。

此の際には、必ずや葬儀社の遺体運搬車によって自宅まで運びますが、近年のマンションなどの住宅事情によっては、近くの集会所や自治館、公民館、などへ運び入れる場合もあります。

 この時点で、医者の死亡診断書や葬儀社、などは「いの一番」に行うことが大事とされているようです。

そして、此方で所謂、仮通夜が行われますが、此の際には身内の者や極身近な親戚筋のもので、遺体を見守りながら今後の本通夜や葬儀の方針や喪主、会計、役員などを決め、其々に役所への死亡届や併せて遺体を最終的に処理してくれる火葬場の日取り、其れに肝心要めの葬儀場の場所や本葬の日程、其れにお寺やお坊さんの決定、其れに大事な会葬者とみなされる方々への丁重な死亡通知等をいろんな手段を使ってお知らせをいたします。

これらの葬儀の細部の関係事項を決めるのにも仮通夜というのは比較的大事なことにもななるらしく、最後まで丁重に個人とのお別れも出来ることになります。

 此の際には田舎の方とか一昔前までは、寝ずに遺体の番をしながら線香の臭いを欠かせず、亡骸に対して火を灯していたものです。

 ところが近年では簡略化して徹夜での寝ずの番の通夜というのは少なくなって、無くなっても来たようです。

20代、女性 葬儀中の忘れられない、いざこざ

子育て真っ只中の40代、専業主婦です。

今は、あまり自分の時間などもなかなかとれない中、毎日を過ごしています。

これは、まだ私が学生時代の頃のことです。

その葬式は、葬儀社での葬式ではなくて、公民館などを借りて葬式をしていました。

いろんな知り合いがお手伝いをしてくれての葬儀でした。

まだ、私もそれほど葬式に行ったことがなかったのと、あまり知らなかったと言うこともあると思います。

それに、葬式のときにはかなり疲れていたこともありました。

親戚の葬式だったのですが、まだ学生だったこともあり、お手伝いぐらいしか出来ていなかったと思います。

葬式だと、焼香の順番があるようで、年配の方が、順番について言っているのが分かりました。

順番が可笑しいとかなど、文句を言っていました。

そんなに葬式に、出たことがなかったし、葬式に文句をつける人がいることじたいあり得ないと思いました。

でも、周りの人もやはりお葬式中と言うこともあり、穏便にみたいな雰囲気でした。

自分は、発言出来るような感じではありませんでしたが、納得出来ないと言うか、こんなときに文句を言うその人の神経がわからないと感じました。

亡くなった人を送り出したい、供養したいと思わないのかなとイライラしたし、何となく切なくなりました。

その人には、その人なりの理屈と言うか、考えがあったのかも知れませんが、お葬式の最中に文句を言わなくていいんじゃないかと思いました。

多分周りも思っていたと思います。

そのあとにも、葬式には行ったことがありましたが、葬式中にゴチャゴチャ文句をいっているのを見たのはその時だけでした。

確かに、揉めたり、ゴチャゴチャすることもあったかも知れませんが、葬式中はそんなことは見せないものかなと感じました。

なので、あの時のことはすごく印象に残っているし、なんとも言えない気持ちになりました。

せめても、そのときだけでも普通に出来なかったのかなと感じてしまいました。

それは今でも忘れられません。

30歳女 葬儀に参列する時の幼児の服装について考えた

こんにちは、5歳と0歳の子を持つ三十路主婦のぴかすです。

ここ数年やたらと親戚が亡くなり、お葬式や法事に参列する機会も多かったものです。

もちろん全て子連れでの参列で、はじめての子連れでの葬儀では、当時上の娘は2歳。

連れていくことすら躊躇いましたが、連れていくのであれば、たとえ2歳でも葬儀に相応しい服装をさせると決めていました。

中には小さな子どもの葬儀での服装をあまり気にされない方もいらっしゃいますが、同じ葬儀に親族として参列した他のお子さん(幼児から中学生まで様々)を見ては、やはり子どもにもそれ相応の格好をさせるべきだなと思わせるものがありました。

小学生ともなると、制服がある場合が多いのでそちらで対応可能ですが、問題は未就学児。

制服もないしわざわざ一度しか着ないかもしれないのに喪服を用意するなんて・・・と思うかもしれません。

しかし、見ている人は見ています。

普段着にスニーカーで参列していた親戚の子、黒のワンピースに黒の靴下、黒のローファーで参列していた我が子。

ご年輩の親族の方は特に、扱いの差が顕著でした。

幼児は葬儀の時にどんな服装が相応しいか、自分では判断できません。

親の価値観と都合で、子どもが損をするのは、あまりにも可哀想です。

もしも近い将来、小さなお子さんを連れて葬儀・法事に参列する必要に迫られた時、あなたはどうしますか?
他人の目を気にしすぎて生きるのも面白くありません。

しかし、他人の目は必ずいつの時代もそこにあります。

幼児に一張羅の喪服を揃えろなんてアドバイスはしません。

私も、某格安子ども服チェーン店で全て揃え、子どもの参列用服装にかけたのはほんの4000円ほどです。

今ではネットショッピングやフリマアプリでも安くいい物が手に入る時代ですね。

予算3000円!など決めて、ゲーム感覚でアイテムをゲットしていくのも楽しいものです。

大切な人とのお別れの式であるお葬式、そこに行くときはきちんと喪に服す服装をしていくんだよ。

そう、お子さまに教えてあげられる絶好のチャンスです。

68歳男性 母の通夜・葬儀の供花の並べ順にクレームを付けた親族

68歳の年金生活者です。

2年余り前に母が亡くなり、葬儀を営みました。

葬儀社の積み立て会員になっていた事もあり、突然の死でしたが、バタバタする事無く準備を進める事が出来ました。

そして祭壇もしつらえられ、連絡した親族等が通夜に向けて集まり始めました。

関西では、最近は香典を受け取らない葬儀が増えており、母の葬儀も香典を辞退しました。

それもあって、参列する親族の多くは供花を供えて下さいました。

供花が沢山供えられると、その並べる順番に気を遣います。

子供や孫を除く他の親族の供花は、母と血縁関係の濃い順番で、同じ親等の場合には年齢が高い順に並べました。

そろそろ参列者も揃い、通夜向けて多くの方が着席を始めた頃に、母の実家を継いでいる私の従兄弟の長男から並べ順位にクレームが入りました。

母は10人兄弟の末っ子で、しかも94歳で他界したため、兄弟夫婦はすべて他界しており、私の従兄弟に当たる人でも85歳を過ぎて、すでに他界している人も多数居られ、順位としては80歳代の私の従兄弟2人に次いで、そのクレームを付けた従兄弟の長男の順番としていました。

そのクレームの主旨は、母の出身である本家を守っているのは自分であり、やはりトップに持ってくれるべきと言うものでした。

そんな供花の順番にクレームを付ける親族など、他には考えられないので、クレームを押さえてしめやかに通夜を営めるように順番をトップとして収めました。

私よりも若い60歳前後なのに、そんな事に拘りを持っている事に少し驚きました。

私達親族の多くは都会で生活していて、そうした事に対する拘りは非常に薄れていますが、やはり田舎の人にはまだまだそうした想いが残っているのだと感じました。

彼の考え方が正しいのか、私の考え方が正しいのかは分かりませんが、その並び順を見れば、私がどの様な順番にしているかは分かったはずです。

私は少々気まずい想いを抱きましたが、黙って順番を変え、他の人に嫌な思いをさせない様に配慮しました。

そんな嫌な気分は何年経っても、通夜葬儀の時の思い出として心に残るものです。

40代主婦 お葬式をみて考える終活

40代2児の母です。

30代のころ父が他界しました。

長い闘病生活からの他界でしたので、ある程度覚悟もできており、子供がまだ小さかったこともあって、死に覚悟はできていませんでしたが、お葬式に対しても粛々と気を落とす母やまだ乳飲み子の子供を抱えて気丈に振舞っていたのを覚えています。

40代になってくると、同世代の方たちの親御さんが高齢にさしかかり、亡くなられることもあって、葬儀などに参列する気かが増えてきました。

その時に感じることは、死に直面してある程度覚悟で来ていた人と、まだ受け入れられないという人が親族でいらっしゃるということ。

お通夜の席でまだ棺に穏やかに眠っている姿を見て、死を受け入れていない人、見るのもつらいという気持ちでおられる人、様々だということです。

小さい子供たちが棺を見て「眠っているね~おばあちゃん」という子もいれば、大人でも「まだ眠っているようで穏やかで綺麗な顔をしているよね~」と話しかけているように棺の見つめる方。

「長い闘病生活でつらかっただろうから、穏やかな顔をして旅立ててよかった」など、本当にさまざまで、同じ葬儀でも話を聞くと全く違った感じ方だったりします。

少し、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、とても面白い知り合いの方の葬儀で親戚一同方向性が一緒なのか、まるで結婚式のような、大宴会のような、笑いあり、笑いあり、悲しんで泣いている人が一人もいない葬儀で、葬儀中に挨拶する方も「ただ今ご紹介にあずかりました~○○の甥でございま~す」とお笑いの出囃子のような調子で始まり、参列者も最後には喜怒哀楽がわからなくなるくらい笑い泣き、泣き笑い、と不思議な空間でした。

でも、一つだけ感じたことは家族や親戚の方が皆さん、故人はこういう送られ方をしたいはず。

という気持ちが強く、出来るだけ多くの参列者の方の笑顔を見て旅立って欲しいということでした。

私はもし自分が葬儀をするときはそんな風に送ってほしいし、家族にもそういう精神で過ごしてほしいので、まだ子供が小さいうちは親の死を考えるだけで不安に感じると思うので、もう少し成長したら、私の終活の一部を少しだけ伝えられてらいいなと思っています。

30歳主婦 恩師のお葬式で見た、素敵な夫婦愛

30代の主婦です。

私が恩師のお葬式で印象に残っているお話です。

中学校時代の恩師が私が大学生の時に亡くなりました。

その先生は部活の顧問の先生でした。

いつも親身に私たち生徒の話を聞いてくれる、素敵な男性の先生でした。

私たちの部活は合唱部です。

その先生も音楽家で、ピアニストで、アメリカに留学経験もある方でした。

ユーモラスで素敵な先生。

みんな大好きでした。

私たちが中学生の時にはもう、定年間近でしたが、その時はとても元気でした。

病気とは無縁でいつも元気はつらつ。

まさかその後、がんを患うとはだれも予想していませんでした。

私たちが卒業して2年後に先生は定年退職しました。

会う機会もなく、先生はどうしているかなあ、と部活仲間と会う時に懐かしんでいました。

大人になった時にみんなで飲み会とかしたいねーなんて言っていました。

先生ががんで入院しているらしいという知らせを聞いたのは大学1年生の秋でした。

友人からその知らせを聞き、とても驚きました。

まだまだ若かった私は「がん」という響きに恐怖を覚えました。

テレビなどではよく聞くけど、まさか自分の身近な人がなるなんて・・・。

しかも病状は悪いらしいとのこと。

どうしたらよいのか、お見舞いに行ったらいいんだろうか。

迷惑かなあ。

仲間内でそんなやりとりが繰り返され、一週間ほど時間が過ぎたころ、
先生は亡くなってしまいました。

本当にショックでした。

私にとっては初めて身近な人の死との対面でした。

先生はクリスチャンでした。

幼いころに行った親戚の仏教のお葬式以来のお葬式。

戸惑いもありましたが、作法など両親から聞いたり、調べたりしてお葬式に向かいました。

プロテスタントの教会でのお葬式でした。

はっきりとした流れは忘れてしまいましたが、オルガンの素敵な音色が印象的でした。

お経はもちろんなく、みんなで賛美歌を歌い、牧師さんのお話がありました。

また、三名ほど、先生の友人方が、先生との思い出をお話してくださいました。

「ああ・・・先生はこんな人生を歩んでこられたんだなあ」
「こんな思いで教師をしていたんだなあ」と、涙しました。

そして、一番印象的だったのが、奥様です。

先生の奥様は、先生と同じくクリスチャン。

そしてピアニストの方でした。

友人の方々のお話の中で先生はとても愛妻家だったというお話がありました。

きっと素敵な夫婦関係だったんだろうなあと思います。

奥様は最後まで涙を見せず、背筋をピっと伸ばしとても気丈にふるまっていました。

出棺前、先生の棺にお花を添え、みんなでお別れをしました。

最後に奥様がお花を添えたのですがその時に奥様はそっと先生にキスをされました。

そのシーンが今でも私は忘れられません。

涙は見せず、冷静に、でも別れを惜しむ切ない気持ちがとても伝わりました。

奥様が先生のことを心から愛していたんだなあということが痛いほどわかりました。

まるで映画のワンシーンのようでした。

お葬式で不謹慎だとは分かっているのですが、とても素晴らしい瞬間だったように思うのです。

最後まで涙を見せず、素敵なお別れをされた奥様の姿が本当に素敵でした。

辛いお別れでしたが、今でも心に残るお葬式でした。

28歳男 お葬式での大行列

これは自分の祖父の葬式でのエピソードです。

自分の祖父は元気な人でした。

祖父は平日、毎朝、天気が良ければ、ゲートボールへ行き、運動を行っていました。

ゲートボールの腕は、区内の大会に優勝し、区長から表彰されるほどの腕前でした。

また、自転車に乗り、坂道を上るときは立ちこぎはせず、座ったままこいでいました。

祖父としては、必要ないから座ってこいでいるとのことでしたが、10代だった頃の自分が立ちこぎでもつらい坂を、祖父は座ったままこいで、坂を登っていました。

かなりの健脚の持ち主で、当時60代後半でした。

夏場はクーラーを使わず、上半身裸になり、扇風機の風と、窓を開け、外の風のみで夏場を過ごしていました。

祖父は人柄もよく、町内会のイベントには必ず参加し、企画、運営を行っていました。

自分は地元のコンビニでアルバイトを行っていましたが、自分が祖父の孫だと知った近所の方が、祖父にはいつもお世話になっています、ありがとうと言われることが多かったです。

また、自分が進学するときに惜しみなく、お金を出してくれたと両親から聞くことがありました。

さらに、自分が20歳になったときにお祝いとして、当時最新のテレビを買ってくれたことを覚えています。

その際、お店の人に値切り交渉をして、表示価格より安く購入していました。

元々、呉服屋で商売していたということもあり、その交渉術に圧巻していました。

魅力ある祖父が亡くなったときは悲しかったです。

そんな祖父のお葬式に、たくさんの方が焼香をあげにきてくれました。

祖父の葬式を見て、自分が将来、死んで、葬式をあげてもらったときに、情でのつながりで多くの人が参加してくれたら、いいなあと思いました。

そのため、多くの人と、良い交流、関係を築いていきたいと、祖父の葬式から感じました。

莫大な遺産などは残していませんでしたが、自分の心には、祖父の葬式での風景が残っています。

祖父から人と人とのつながり、信頼関係を大事にしろよと最後の最後に教わった気がしました。

49歳男、旧友のお父さんのお通夜で号泣の巻

今年で50歳になる会社員の男性です。

「お葬式で印象に残ったエピソード」と言うことで、今回は最近の事例を記載します。

昨年の夏でした。

旧友のお父さまが亡くなられて、地元の農協会館の葬儀場でお通夜があり、出席しました。

旧友のお父さまとは、高校時代や大学時代に何度か一緒に飲食したこともあり、その頃から、あまり外観は変わらなかったので、いつまでも若いなぁと思っていましたが、大腸がんを患っていたらしく、発症してから1年ぐらいで亡くなってしまいました。

お悔やみ申し上げます。

さて、今回は、その旧友のお父さまの通夜において、お葬式自体は、葬儀屋の指示に従って、通例通りに厳かに行われていました。

その中で、特に印象に残った場面がありました。

それは、孫からの最期の言葉でした。

孫は、旧友の娘さんが二人いて、中学2年生になるお姉ちゃんが、お爺さんへの最期の言葉を読み上げていました。

私も、その旧友の娘さんたちと、たまたま同じ年の息子が二人いるので、非常に共感するものでした。

内容は、主に、おじちゃんとの思い出でした。

塾やお稽古ごとの送り迎えや一緒に行った色々な行事や食事会の話など、聞いていると、危うく私も号泣しそうで、涙をこらえていました。

そして、最後に一言、「おじいちゃん、もう少し一緒に居て欲しかったよ。

」これで、締めくくられました。

もう私は、我慢出来ず、恥ずかしながら、号泣しました。

友人たちも驚いていましたが、後で、感動しやすいお前らしいなと言われてしまいました。

私の場合、まだまだ私の父は健在なので、中学3年と1年になる息子達も、まだまだおじいちゃんにお世話になると思いますし、まだまだ頑張ってもらわないと困ってしまうのが実状です。

でも、実際のところは、いつ亡くなるのかなんて、誰にも分かりません。

ただ、はっきりわかったのは、いつも同じ敷地内で一緒に暮らしているお爺ちゃんと孫の絆は、本当に深いものなんだと痛感したお葬式でした。

あまりに感動したので、これは使えるなと不謹慎ながら、うちも孫からの最期の言葉を言わせようと思ってしまいました。

私と旧友の友達や旧友の知り合いや親類の方々も居たのに、思わず、号泣してしまった自分が恥ずかしくて、我慢すれば良かったと後悔しています。

お葬式で、孫からの一言や親友からの一言などで、ついつい感動してしまって、思わず号泣しそうになったら、耳をふさいで、ウルフルズとか、こち亀などの元気のある歌でも思い出しながら、他の全然違うことを考えたりして、とにかく、気をそらして、号泣しない様に気を付けてください。

あまりその場の雰囲気に入り込まないこと。

恥ずかしいですからね。

恥ずかしいのは、私だけで十分です。

29歳男 親戚の子の強さに脱帽しました

 こんにちは。

僕は29歳の男性です。

職業としては現在、自営業(フリーランス)をしております。

 そんな僕はいつもの通りに家でデスクとパソコンに向かい、仕事をしておりました。

 仕事をしていると親戚の叔母さんから着信がきました。

僕は「もしもし?叔母さん」というと、叔母さんが「あっ!もしもし??私よ久しぶりー」なんて感じでしたが、叔母さんは「あのさ実は今朝方に私の姉が亡くなったの」という事でした。

 僕はあまりにも急な出来事だったのでびっくりしてしまい、「ま、マジ?叔母さんドッキリじゃないよね?」というと、叔母さんは「ドッキリじゃないわよ。

それであなたにも葬儀等の手伝いに来て欲しいの」というので、行くことしました。

 礼服に身を包み、叔母さんのお姉さんの自宅へ行くと、親戚一同が集まっており、色々と挨拶をしたりお話をしたりました。

 それで僕は叔母さんと共に、お葬式の手配と送り迎えのバスの運転手と、食事の手配をしました。

 食事は近所の老舗料理屋から作ってもらうことにして、バスの手配も完了をして、お葬式の日取りも決まり、夕方からは少し余裕ができました。

 そうしていると「兄ちゃん!」という声がしたので振り返ると、親戚の男の子がおりました。

 この子とはテレビゲームをしたり、一緒にごはんを食べたりして仲良かったのです。

 「兄ちゃん。

お別れの言葉の文章みてくれる?」と言われて、僕は文章を見てあげました。

小学4年生の割には、きちんとした文章構成で書かれており、感心したほどです。

 僕は「明日の葬式でお別れの言葉を読むんだね?頑張ってね!泣くんじゃないよ?男だったらね。

安心して天国へ行けなくなるだろ?」というと、「うん!僕大丈夫!泣かないよ」と言いました。

 そして、次の日。

 葬式の会場へ到着すると、色々な準備をしてから、葬式となりました。

 いよいよこの子のお別れの言葉の時が来たのです。

僕は内心「泣いちゃうだろうな」と思っておりました。

 ところが、「これからお別れの言葉を読みます」といい、淡々と読み上げる姿は、とても子供とは思えませんでした。

 
 きちんと最後の最後まで読み上げました。

 親戚一同は「泣かないなんて・・・」や「泣かないなんて偉いね」とほめておりました。

 僕のこの時の心情としては、「本当に偉い子だ!強い子だ!」と思いました。

 最後にアドバイスとなりますが、故人を見送る時はとても泣きたいし、辛いと思います。

 僕は泣いてもいいと思います。

 でもやはり、この子のように泣かずに送り出してやるのが故人にとっては一番有難いことなのではないでしょうか?

 僕の方がこの子より年上ですが、この子のことは尊敬している部分があります。

39歳女、ユニークな葬式を経験しました

39歳、専業主婦です。

私が高校3年生の時に亡くなった祖父のお葬式エピソードです。

祖父は9月中旬に88歳で亡くなりました。

脳梗塞でした。

祖父と同居している親戚(父の兄)から、危篤だと電話連絡があってから1週間で亡くなってしまいました。

父の実家は山梨県大月市の山奥です。

昭和の雰囲気が残っております。

葬儀は自宅で行われたのですが、その葬儀がユニークだったので紹介します。

葬儀は親族とご近所の方々の協力により作り上げられるイメージです。

通夜の前日から支度が始まりました。

葬儀屋さんが来て準備をするのではなく、葬儀に詳しい人が指揮を取っていました。

男性は祭壇準備や電気系統の準備などの力仕事、女性は掃除や食事作りなど各自の得意分野に分かれていました。

私は葬儀場での葬式しか知らなかったので驚きました。

お葬式も驚きの連続でした。

山伏のようなお坊さんがやってきました。

痩せており、無精ひげを生やしています。

祖父の葬式前に4つの葬式を経験していますが、いずれのお坊さんも肌艶が良く、ふくよかでピシッと輝きのある袈裟を着ていらしたので、引いてしまいました。

お経もユニークでした。

祖父は普通の仏教徒なので、私が経験した葬式のようにお坊さんが祭壇前に座りお経をあげてくださるのを聞くと思っていましたが、立ったままのお坊さんが繰り返し唱える「南無妙法蓮華経」に合わせて親族一同も大きな声て繰り返し唱えました。

親族は祭壇の前に並んで正座をしており、お焼香セットがお盆にのって回ってきます。

お焼香が終わるまでお経は唱え続けられ、15分以上は唱えていたと思います。

その後も驚きの連続です。

一般的には精進落としというと、お寿司かなと思うのですが、カレーでした。

となりの家へお邪魔して、温かいカレーを皆でいただきました。

父の会社の同僚や母の兄弟などが来てくれたのですが、全員が驚いていたそうです。

参列して下っ去った方には、親族が知らない驚きが受付でありました。

なんと、香典返しと共に飴が貰えたそうです。

イメージは、焼肉屋さんや薬局などのレジカウンター脇に「ご自由にお持ちください。

」と置いてあるスタイルです。

葬式の後、親族はマイクロバスに乗り火葬場まで行きました。

お骨を骨壺に入れるときの流れは一般的でしたが、その後が違いました。

火葬後すぐに納骨だったのです。

火葬場から自宅に戻ると、祖父の家から歩いて15分ほど離れた場所にある御墓に行きました。

祖父の墓は山の上にあります。

舗装されていない道幅50㎝程の山道を喪服のまま、女性はヒールで上りました。

祖父の葬儀から20年の間に6つの葬式に参列しましたが、こんな斬新な葬式は祖母のときだけでした。

祖父の葬儀で後悔していることは、準備のとき母に言われたことだけ手伝い、あとは従妹と遊んでいましたが、私にも手伝えることが他にもあったかもしれないということです。

この記事を読んでくださった方ににアドバイスがあるとしたら、普通とは違うタイプの葬式があることを知っておくことだと思います。

内容まで詳しく調べる必要はありません。

あるという事実を認識しておくことでユニークな葬儀に参列することになったときも、心を落ち着けて故人の冥福を祈ることができると思います。

29歳 女 母の葬儀でお坊さんの話にびっくり

こんにちは。

2年前に母を亡くした29歳女性です。

まだ50代と若かった母が突然亡くなり、家族全員が悲しみに暮れる中、身内だけの小さなお葬式を執り行いました。

9月のなかごろで、夏の暑さも落ち着き、ひんやりとした雨が降っていました。

本当に突然のことだったので驚きと喪失感のなか、涙をこらえながら(ほぼこらえられていませんでしたが)お経を聞いたり、お焼香をあげたりしていました。

母との最期の時間を惜しく思う気持ちと、あまりにつらいので式が早く終わってほしい気持ちがせめぎあって、頭がぐわんぐわんしつつも、おとなしく椅子に座っていました。

この辺まではいわゆる普通のお葬式で、私も母との別れに集中できていました。

お経が終わるとお坊さんからありがたいお話が始まりました。

その話始めがなんと!「日本は近いうちに必ず滅亡します。

」。

耳を疑いました。

思わず心の中で「えー!(笑)」と叫んでしまいました。

参列者は全員悲しみに暮れているというのに、なんて救いのない話!(笑)
よく聞いていくと、このお坊さんはどうやら日本の経済の行く末を心配しているようでした。

「最近は葬式をする人も減った。

坊さんもなかなか呼んでもらえず苦労している・・・」「年金や健康保険もそろそろヤバい。

若い人の気持ちもわかるが、お葬式をしないなんて、どうなっても知りませんよ。

」といった内容。

式場は「葬式の場で営業活活動するなよ・・・」という空気で包まれました。

お葬式を終えた後、親族の会話はこのお坊さんの説法の話で持ち切りでした。

「なにもあんな話しなくてもねえ・・・」「せめてもうちょっと明るい話を・・・」
その時はすごくびっくり&ちょっと怒りを感じてしてしまいましたが、今となればちょっとした思い出です。

親族と会った時にも笑い話になるし、まあ、いいかな、という気持ちです。

お坊さんがここまで見越してあのはなしをしたとは到底思えませんが。


以上私のお葬式びっくりエピソードでした。

ありがとうございました。

同い年の友人の葬式で学んだこと

初めまして。

私は現在23歳の仙台市出身の者です。

私の持っているエピソードは私の友人のお葬式のエピソードです。

これは心霊系のエピソードなどではなく、感心したなぁというものです。

昨年の八月に私の友人が交通事故で亡くなったのですがその友人は優しい男でとても大勢から好かれていました。

その友人がなくなったのは早朝の通勤途中に居眠り運転をして運悪く大型クレーン車と正面衝突を起こして亡くなりました。

私はその友人に気が向いたときたまにLINEを送る程度でしたがそのラインにも優しく返信をしてくれるような男でした。

彼は高卒後すぐ就職していたので仕事も安定しそろそろ飲みに行こうと話していた矢先のことでとてもショックを受けました。

私はその友人が亡くなったと聞いたとき会っておけばよかったと後悔したとともにせめてもの罪滅ぼしの気持ちでその友人のお葬式そしてお通夜には必ず参加し彼の両親には何か言葉をかけて少しでも楽になってもらおうと思いました。

私がまずお通夜に参加して驚いたのは彼の友人の多さでした。

私は祖母のお葬式をその半年前に経験していたのもあってお葬式はすごくこじんまりした物だというイメージがありました。

がしかし彼の場合数多くの友人がいて多くの人から愛されていたようで数多くのご老人なども参列していました。

お葬式では席が足りなくなるほどの参列者で溢れかえっていました。

まさかお葬式でその人となりをみるとは思いませんでした。

またもう一つ勉強になったのは息子を若くして亡くした彼のご両親も参列者に大きな気遣いをみせとても信じられない笑顔で接していたこともあまりお葬式お経験のない僕はとても驚きました。

そして多くの人からご両親に励ましの言葉を掛けられなんだかこういうことによって救われているんだなと少し思い、結果的には亡くなった人が人生で人を大切にしてきた結果家族に何かつらいことが起きてもその彼の愛を受けた友人知人が残された家族を救うのだなと思いました。

私もそうなりたいと思いましたし、そう生きることは素敵なことだと思いました。

46歳女性が近所の方の優しさの中でお葬式をした記憶

私は、40代半ばの既婚女性です。

今でも続く田舎独特習慣の中で、父親のお葬式をしました。

ここでは誰かが亡くなると、今でも近所の方がサポートしてくれます。

今から3年前の春、私の父は病気のため60代で亡くなりました。

家族みんなが覚悟していたことではありましたが、やはり気が動転してしまい、特に母はかなり落ち込んでしまいました。

母は、信じられないくらいきつい言葉を口にするようになり、何度注意しても止まらない。

私は、何度も何度も母を裏山に連れて行って、言動に注意するようにと伝えたのですが、ダメ。

ほとほと困りました。

しかしながら、お葬式の準備をどんどん進めていかなければなりません。

私たち姉弟も、不慣れだったため、何をどうしたら良いかまるで分らない。

そんなとき、近所の方が私たち家族を労わり、色々助けてくれました。

近所のとある方が、クレイジーになっている母をとがめることもなく、広い心で接しながら、私に優しい声で「お母さんを頼むよ」と言ってくれました。

喪主は弟だったので、全て弟が対応。

色々教えてもらいながら、お葬式を行うことができました。

私の家は、築100年以上経つ古い家で、子供のころはその古さに恥ずかしさを感じていました。

しかし、父はこの古くて大きな家が大好き。

農業一筋で田んぼと家の往復で生きてきた父は、ここが本当の意味でお城だったのでしょう。

だから、亡くなる数日前までこの家で過ごすことができたのは、父にとって幸せなことだったのだと思います。

父を火葬場に連れて行く車と、私たちが乗ったバス。

ぼんやりしながら座っていると、細くて走りにくい山道を走りだしました。

「え?」本当は、ちゃんと広くて走りやすく、火葬場に近い道路があるのですが、バスと車はなぜかこの道を通ったのです。

不思議に思いました。

でも、すぐに理由が分かりました。

細い山道の向こうには、私のオンボロな家がある。

バスと車が私の家の前を通る時、スピードがゆっくりになり、ブーっと長い長いクラクションの音が聞こえてきました。

とたんに、私の目から涙がこぼれてきました。

私に、お母さんを頼むよと言ってくれた近所の方が、家が大好きだった父のために、あえてこの道を通るように手配してくれたのです。

もしかしたら、私は本当の意味でこのときに父の死を理解したのかもしれません。

父がいなくなって寂しい気持ちになるとき、周囲の方の思いやりを同時に思い出します。

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